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明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

歪みと沈下【評=中野行準】

「六本木クロッシング2022往来オーライ!」展(森美術館)

「青木千絵個展 沈静なる身体」展(ギャラリーSOKYO ATSUMI)

 

 青木千絵の彫刻は微動している。うなだれ、もつれ合い、倒れかかっている人型の彫刻は、重力に耐えきれず、平衡感覚を失いながら、少しずつ地に沈んでいく。それらの彫刻は、身体を動かすことの喜びに満ちてはいないし、ギリシャ彫刻が強調するような肉体の美(そして健全な肉体に宿る健全な魂)を賞賛するような運動の状態にもない。しかし、それらの彫刻はけっして静的ではない。むしろ、青木の彫刻は特異な空間のなかで、互いにせめぎ合いながら、かすかに震えている。

 

 「六本木クロッシング2022往来オーライ!」展に展示された〈BODY 21-3〉(2021)は、うなだれる姿勢の人型の彫刻作品であり、高めの台座に置かれていた。座ったままお辞儀をしているような姿勢のこの彫刻が異様なのは、頭部に付属する黒い物体の存在による。この物体は、その重みで人を引きずり、下へ下へと向かわせる。見ていると、この物体に引かれて、台座に乗せられた彫刻がずり落ちてしまうのではないかと心配になる。だが当然この彫刻は、そうはならない。黒い物体によって下に引きずられているように見えるこの彫刻は、その位置を寸分たりとも変化させないことで、永遠の沈下運動の最中にとどまりつづける。

 

 青木のほとんどの作品に付随するこの黒い物体はいったいなんだろうか。長縄宣はこれを「肉体から遊離した「魂そのもの」」だという(1)。また、青木自身は〈BODY 21-1〉(2021)について語った文章のなかで、その彫刻に「胎児を宿し守る強い母性」を感じ取っている(2)。さまざまなものの象徴として捉えることが出来るこの黒い物体こそが、青木の彫刻の中心点であり、周囲の空間と身体を歪めていることは間違いない。だからこそ、私はこの黒い物体を、重力の凝縮点であり、まわりの場を歪めるブラックホールのようなものだと考えてみたい(3)。

 

 「青木千絵個展 沈静なる身体」展(ギャラリー SOKYO ATSUMI)で展示されている〈BODY 22-3―宙を懐く―〉(2022)で、この黒い物体はまさにブラックホールさながら、物質を吸収しようとしている。腕と頭はこの黒い物体とほとんど一体化していて、肩からお腹までの部分と黒い物体との境目は曖昧だ。臀部と足は明確な輪郭を持っているが、いずれこの黒い物体に吸い尽くされてしまうだろう。この黒い物体は、その重みで人間の身体を歪めるのだ。そして、その黒い物体(と身体)を覗き見る者もまた、ブラックホールによって歪められた場に巻き込まれ、歪む。これは比喩ではない。われわれが実際に青木の彫刻に近づき、その表面を眺めるとき、漆が何重にも塗り重ねられたその光沢ある表面は、そこに歪んだ観者の姿を映す。青木の彫刻に近づくとき、私たちは、無傷の観者ではいられない。そのときすでに私たちはブラックホールが生み出す歪んだ場に巻き込まれているのだ。

 

 こうした歪みの効果は、複数の彫刻作品が展示されている空間では、さらに際立つことになる。彫刻に付随するブラックホールは、相互に影響を与えあい、歪んだ空間を生み出し、展示会場の全体を通常とは異なった位相の場へと変化させる。青木作品の展示空間に足を踏み入れた瞬間に感じる奇妙な感覚は、こうした物体相互の力のせめぎ合いの効果によるのだろう。そして青木がこうした物体相互の力関係に自覚的な作家であることは、「沈静なる身体」展で展示されていたドローイング作品からも読みとれる。

 

 ドローイングの多くは、黒を背景に白い円形のものがふたつ描かれ、ふたつの白い円は曖昧につながっている。つながった結果として、あるものは紐状に、またあるものは大きなふくらみを持つひとつの物体になっている。これらのドローイングを、身体が具体的な形を取る前の原初の存在、つまり胚として捉えることもできるだろう。しかし、ここではもっと根源的に、物体間に働く力の相互関係が描かれたものだと考えたい。ここには、ある対象ではなく、場の変容をもたらす力関係こそが描かれているのだ。さらに、これらのドローイングが白で描かれていること、つまり彫刻の表面の漆黒とは正反対の色で描かれていることを踏まえれば、これらは展示空間の力関係を写した設計図あるいはネガだということが出来るだろう。青木のドローイングと彫刻(の展示空間)はまさに表裏一体なのだ。

 

 最後に青木の作品群の中で例外的な位置を占めるものを取り上げておこう。それは〈BODY 20-1〉(2020)や〈BODY 17-1〉(2017)などの、天井から吊るして展示されるタイプの作品だ。これらの彫刻も人間身体の形をしているが、異様なのは長く伸びた胴で、それに覆われているのだろうか、頭部は存在しない。身体の一部が欠けていることは青木の他の作品と大きく異なっている部分だが、もっとも重要な違いは彫刻全体から受ける印象だ。じっと見ていると、これらの彫刻は、少しずつ上昇しているように感じられるのだ。この印象は、彫刻が天井から吊るされていることや爪先立ちという姿勢、さらに胴の極端な長さが鑑賞者の視線を徐々に上に誘うことに由来すると思われる。しかし、この上昇は単なる上昇ではない。というのも、他の彫刻と同様、あの黒い物体の重みが彫刻を下へと向かわせているからだ。もし下降の力が上昇の力をこえれば、この彫刻もまた、うつむき、うなだれたあの姿勢にたどり着くだろう。しかし、ここではそうならない。その重みに耐えながら、その重みとともに、彫刻は上昇していく。その姿は凛々しく美しい。青木のこれからの製作において、下降運動と上昇運動のせめぎ合いが見事に造形されているこれらの作品群が重要なメルクマールであることは間違いない。

 

(1)長縄宣「漆黒の闇を行き交う——魂の行方」現代美術 艸居編『青木千絵』(現代美術 艸居、2018)、54。

(2)青木千絵「乾漆技法による人間表現の探求:《BODY 21-1》の制作を終えて」『金沢美術工芸大学紀要』66号、2022、32−36。

(3)先の文章で長縄もまたブラックホールという比喩を用いて青木の作品を説明しているが、十分な考察がされているとは言い難い。