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明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

驚くべき解剖学者の生涯の秘密【評=管啓次郎】

養老孟司『なるようになる。』(中央公論新社、2023)

 

 養老孟司さんの語りによる自伝といっていい『なるようになる。』を、聞き手である読売新聞の鵜飼哲夫さんからいただき、早速読んだ。おもしろい。奇人といえば奇人、だが「哲学とは常識批判」と仮に定義するなら、これほど哲学的な人物はめったにいないだろう。養老さんには、なんというか、古代人のようなところがある。その発想ないしは生きる態度がよくうかがえる快著だ。

 

 生涯のエピソードのどれに感銘をうけるかは読者ごとにちがって当然。ぼくがおもしろいと思った点のいくつかを、覚え書きとして列挙しておく。

 

 幼時(6歳?)、三菱商事に勤めていた父親の臨終に立ち会う。

 

 「お父さんに、さよならを言いなさい」

 父は、こっちを見ていましたよ。でも私はずっと言葉に詰まって声すら出ない。すると、父がニコッと笑い、それからパッと喀血した。それで終わり。(18)

 

 おそらくこの経験のせいで、挨拶が苦手な子供になる。しかしその理由にはたと気づいたのは40代になってからだそうだ。「父という大切な存在にもできなかった挨拶を、他人にするわけにはいかない──」。大人になってこれに思いいたった瞬間、「私の中の父は死んだ」と思い、涙がさっと出たという。自己分析の根本的な秘密にふれる洞察だ。

 

 もうひとつ、子供時代の話。

 

 ちょうどその頃、左利きを右利きに矯正されました。その副作用じゃないか、と思うのは、今でも「短」という字のヘンと旁が混乱し、左側が「豆」なのか「矢」なのか、わからなくなります。(24)

 

 この経験はぼくにはわからないが、そういうこともあるのだろうか。じつにおもしろい。他の左利きのみなさんに訊いてみたいところ。

 

 敗戦後、疎開先から戻ると、小学2年生のクラスで教科書の墨塗りをやらされた。しかしなんでも文字があればすぐに読んでしまう子供だったので、墨塗りはまったく意味がない。塗るまえに読んでいる。むしろこの経験が教えたのは、国がやることが無責任で、どんな影響が出るかをまったく考えていないということだったようだ。明治維新、しかり。敗戦後の激動、しかり。

 

 思えば、明治維新でも、江戸時代に260年間やってきたことをガラッと変えた。どうも日本社会には世の中をそうやって変えてもいいという乱暴さ、楽天主義がある。

 逆にいうと、制度やシステムなんていうものは、諸般の事情によっては変えてもいい、過去のものも必要ならば捨ててもかまわない、と考える。明治の大日本帝国憲法だって、不磨の大典といわれたのに、戦争に負けたとはいえ、新しい憲法になった。この楽天主義がどこから来たのか、今でも疑問に思っている。(36)

 

 まさに。このような制度の破壊をめぐる「楽天主義」と、すさまじい自然嫌悪に基づく国土破壊(山河を見よ、海岸を見よ)は一体のものではないかとぼくには思えるが、日本よ、よくこんなむちゃくちゃなことをやるなという感慨が、養老先生の「脳化社会」批判につながっていることは確実だろう。要するに、頭で考えただけの単純きわまりない計画を、何の歯止めもなく実行してしまう。日本はそういう社会だ。東日本大震災後の巨大防潮堤建設など、その最たるものではないか(これはぼくの意見)。その対極にあるのが具体の科学としての昆虫学であり、現実に虫を探し捕え考えるというプロセスだった。のちの解剖学者を生んだのは昆虫採集の経験だったわけだ。

 

 5年生だったか、6年生だったか、ミヤマクワガタを寺【鎌倉の妙本寺──引用者注】の裏山で見つけたときはドキドキして、心臓が口から飛び出すかと思った。背の倍ぐらいの高さの木の枝にいて、網が届くかどうか、ギリギリの場所にいる。平地にはあまりいない虫なので、採れたときは、それはうれしかった。(43)

 

 この少年時の経験が、2015年には鎌倉の建長寺に「虫塚」をつくり、毎年6月4日(虫の日)に供養をするという行動につながった。ところが昆虫という、おびただしいものたちの存在も、現代世界では深刻におびやかされている。

 

 世界の森林が年間500万ヘクタール減っていることも、虫にとっては大変です。日本全体の森林面積が2500万ヘクタールですから、日本が5年で裸になるくらいのスピードで森林が減り、そこで生きる虫たちは住処を失っている。(154)

 

 戦慄せざるをえない状況が世界を覆っている。地球の生命がつづいてゆくにはヒトの自己収縮以外にないということは明らかだと思われるが、産業・流通・エネルギー消費などの全般的体制を見直すには、いまが最後のときかもしれない。そんな大きな話を養老先生がするわけではないが、脳の独走を戒めるという彼の基本的主張には、当然そんな射程が折りこまれているといっていいだろう。

 

 最後に、養老さんの自己引用を引用する。初出は論文「トガリネズミからみた世界──携帯から推理する」(岩波書店「科学」1977年11月号)とのこと。

 

 生き物を扱う人は二つに分離しているようにみえる。生き物を他者とみるか、同胞とみるかである。他者とみる性向が強ければ、生物の多様性や生物間の差異は自明であり、したがって前提となる。論理による共通性の追求が表面に現われ、いわゆる本質論をなす。ヒトと動物を峻別する伝統に立つ西欧の生物学が大きくこちらに寄るのは故なしとしないであろう。生物を感性的に同胞と認める性向がどこかで刷りこまれてしまった人にとっては、生物の同一性は前提となり、多様性が逆に驚嘆の的となる。(109)

 

 そして次の段落。深く感動させられた。

 

 生物はこの地上に一回だけ現れたものであり、唯一度の歴史を経てきた。生物学においては、取り扱う主体も、取り扱われる対象も、同じ長さの歴史的時間の所産であり、同じ法則に従ってでき上がってきたはずのものである。この二つの存在の間に、それゆえの何か絶妙な “共鳴” を期待するのは誤っているであろうか。もし生物学が他の自然科学から際立った所がありうるとしたならば、このような同胞の間に成り立つ「共鳴」ではないだろうか。(110)

 

 養老さんがこの原稿を解剖学の恩師・中井準之助に読んでもらったところ、師は「共鳴」のところに赤線を引っ張って「合掌」と書いたという。いい話だ。生物の世界では、種と種とは互いにそっと掌を合わせて生きているのだ。この文が書かれた1977年のぼくは大学1年で、雑誌「科学」を手に取るという発想すらなかったし、たとえこの文章を読んでも少しの共鳴もしなかっただろう。ぼくが初めて養老孟司の名を知ったのは1986年、雑誌「エピステーメー」の編集部でのことだった。編集長の故・中野幹隆さんが養老さんにむかって「あなたの発想にはミシェル・フーコーのそれに通じるものがある」といってフーコーの著書一式を段ボール箱で養老さんに送り、なんでも自由に論じてくださいと依頼したという話だった。中野さんの慧眼が見ていたものをぼくは見通せるわけではないが、近代社会の個人主義的人間観に対する批判、脳がみずからつくりだしている認識の壁に対する反省といった点を、両者が共有していると中野さんは考えたのではないか。

 

 養老さんの鎌倉の自宅書斎の机は、1932年の「5・15事件」で射殺された当時の首相・犬飼毅のものだったという。どういう事情でそれをもらいうけたのか知りたい気もするが知らなくてもいい。ただそのような具体物が身近にあれば、それなりに歴史についての考え方も変わってくるだろうとは思う。

 

 天皇制についての考えなど異論も多いが、養老さんの広大な森のような複眼的発想には、これからも折りにふれては多くを学びたいと思っている。自分の常識をくつがえすために。