Coyote Reading

明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

青べか世界【評=中野行準】

山本周五郎『青べか物語』(新潮文庫、1964)

 

 いつのまにか青べかの世界に迷い込んでしまっていた。そこにはタバコを1本せびっては、箱ごとかすめとっていく芳爺がいて、お金が貯まると女性に貢いでしまう留さんがいて、自分を兵曹長だと思い込み、会う人ごとに、「人はなんによって生くるか」と問いかけるささやんがいた。獺や鼬は人をだまくらかし、おどろおどろしい白い人たちが工場で働いていた。

 

 『青べか物語』は、ある1つの世界をものがたっている。あくまでも言葉の連なりにすぎない小説がこれほどの密度の世界を創りあげてしまうということに、驚き、感動しながら読み進めた。たとえば冒頭近い部分にあるこんな文章が私を惹きつける。

 

 この町ではときたま、太陽が二つ、東と西の地平線上にあらわれることがある。そういうときはすぐにそっぽを向かなければ危ない。おかしなことがあるものだ、などと云って二つの太陽を見ると「うみどんぼ野郎」になってしまう。そうしてそのときにはすぐ脇のほうで、獺か鼬の笑っている声が聞えるということである。(11)

 

 日の出と日の入りの太陽、脇には獺と鼬の笑う声。喚起力豊かなイメージが読者を物語のなかに誘う。「うみどんぼ」は海蜻蛉がなまったものだろう。船に乗る人を罵るための言葉らしい。「うみとんぼ」より「うみどんぼ」のほうがしっくりくるように思われるのは、「とん」という軽い音より「どん」という重く勢いある音のほうが青べかの世界にふさわしいからかもしれない。

 

 どん、どん、どん、どんというBGMが実際にきこえてくるように思えたのは、石灰工場で働く「白い人たち」が登場する場面。彼ら彼女らがそう呼ばれているのは、男も女もみな裸で、身体中が石灰粉まみれになっているからで、粉が毛根に付着し固まるのを避けるために体毛はすべて剃り落としてある。「人間というよりも、なにかえたいの知れないけものというようにさえみえた」(114)と言われる彼ら彼女らの登場場面は読んでいて鳥肌がたった。映像作品にしたらどうなるだろうかと妄想してしまう。

 

 ところで『青べか物語』の舞台には実際のモデルがあって、作家が一時期住んでいた千葉県浦安がそれだ。そのころの周五郎は、作家としてデビューはしていたものの、その活動は軌道に乗っていなかったし、同時期に失恋も経験していた。経済的にも精神的にも苦しいなかで、漁村のひとたちとのふれあいが周五郎の傷心を徐々に慰めていったのかもしれない。

 

 もちろん浦安になじみがない読者でもこの小説を十分に楽しめる。浦安は浦粕として書かれることで、どこでもない場所=どこでもある場所へと変貌しているのだから。そこで営まれている生活は、多くの読者にとってどこか懐かしいものであるだろう。

 

 最後に私がもっとも心を打たれた挿話を紹介しておきたい。話は語り手が子どもたちから鮒を買ったことにはじまる。味をしめた子どもたちは、鮒を釣っては売りにやってくる。語り手もはじめのうちは買ってやっていたが、お金が足りなくなり、ついに音を上げる。断られた子どもたちはどうしようかと思いあぐねたすえに鮒を贈与することに決める。長くなるが素晴らしい箇所なのですべて引用する。

 

「みんな」と長が急に云った、「それじゃあこれ先生にくんか」
 くんかとは、贈呈しようか、というほどの意味である。途方にくれ、落胆していた少年たちの顔に突然、生気がよみがえった。それは囚われの縄を解かれたような、妄執がおちたような、その他もろもろの羈絆を脱したような、すがすがしく濁りのない顔に返った。
「うん、くんべ」と少年の一人が云った、「なせ、これ先生にくんべや」
「くんべ、くんべ」
「先生、これ先生にくんよ」とかんぷりが云った、「みんな、勝手へいってあけんべや」
 私は自分の大きな過誤を恥じた。
 少年たちに狡猾と貪欲な気持を起こさせたのは私の責任である。初めに私は「その鮒をくれ」と云えばよかったのだ。売ってくれと云ったために、かれらは狡猾と貪欲にとりつかれた。私のさみしいふところを搾取しながら、かれらも幸福ではなかった。(161)

 

 贈呈という考えを思いついた子どもたちの顔に生気がよみがえる。子どもたちは金銭への尽きることなき欲望からひととき解放されたのだ。鮒は商品から贈り物に、搾取は贈与に変わる。そしてなにより子どもたちの顔が変わる。「くんべ、くんべ」を忘れてはいけない。