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明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

余計なお世話と地獄耳【評=林真】

幸田文『草の花』(講談社文芸文庫、1996)

 誰かの放ったなにげない一言に水を差される。あるいは、ついぽろりとどうしようもないことを言ってしまい、後悔する。本書に収められた随筆には、いくつかそういう場面が登場する。

 

 表題作「草の花」は小学校を卒業した幸田文が女子学院に通っていたころの回想録だ。あるとき幸田は母親(露伴の再婚相手)に「特選」という札のついた着物を買ってもらうことになる。上機嫌の幸田に母親は言う。「きっとこれ西洋の先生に好かれる柄よ、異人好みだもの」「西洋の人に好かれなければ損なのよ、ミッションではそれで随分ちがっちゃうんだから」。西洋人教師の多い学校に通う娘が、少しでも先生に好かれるようにと考えたのだ。しかしその打算のことを、新しい着物を喜んでいる娘にわざわざ伝える必要はない。母の言葉を思い出し、幸田はこう書く。

 

 変なふうに聞えた。地獄耳ということばがある。聞かずともいゝこと、聞かせたくない人の秘事を迅速にさっと聞いてしまい、そして潜在的におぼえているのをいう。大喜びで買物に来て気に入ったものを買ってもらって、大満悦でいる最中に、私という子にはなんだって地獄耳がとんがっていたんだろう。でも、ほじり出して聞いたのではない、地獄が勝手に対うからこっちの耳へはいって来ちゃったのだ。なぜ、はゝも不用意にこんなことを云っちまったのだろう。得意で心が軽くなっているときに唇が不用意になっているとは、人間というものは悲しいものである。ほんとに、ひょいと云ってひょいと聞いたんだから。(56)

 

そう、人は言わなくてもいいことを「云っちま」うし、「地獄」は「勝手に対うからこっちの耳へはいって来ちゃ」うのだ。すさまじい文章だと思う。なぜ言ったのかという恨みや、聞こえたのだから仕方ないという諦めとは少し違う。誰かが言葉を発して、誰かがそれを受け取るという事態の根源に触れるようななにかがここにはある。

 

 あるいは「長い時のあと」という随筆では、幸田の知り合いの夫婦のことが語られる。その夫婦はいかにも離婚しそうなのだが、妻のほうは息子が成長するまで現状を維持しようと決めているようだ。しかしその期間は、息子が小学校を出たら、中学を出たら、高校・大学を出たら……と、どんどん引き延ばされる。そこで幸田は、「せめて就職したら、せめて結婚したら、せめて孫を見て、せめてひ孫〔原文は「ひ」に傍点〕を見てでしょ。そんなこと云ってゝおしまいになるわよ」と軽口をたたく。余計なお世話である。もちろん幸田もそのことをわかっていて、次のように書く。

 

「あゝ悪いことを云ったなあ、大変ないけないことを云った。あのひとをこのさき一生傷つけるようなこと云ってしまった。まずかったなあ」と悔やんでももう遅い。(148)

 

間違ったことを言ったわけではないため、訂正もできない。幸田は暗澹たる気持ちになったことだろう。だが私は、この文章を読んでなにか爽やかさのようなものを感じてしまう。「悪いことを云った」「いけないことを云った」「云ってしまった」「まずかった」という度重なる後悔の末に、「悔やんでももう遅い」という事実が急にあらわれるからだろうか。

 

 おそらく幸田は、母から言われたことを根にもっているし、知り合いに言ったことをずっと悔やんでいるだろう。しかしそうした経験が幸田によってきわめて冷静に検討され文章化されるとき、なにかが起こる。その場のやるせなさが、言葉によって整理されるのではなく、言葉によって解放される、とでもいえばいいだろうか。その解放はやはり、読者にある種の爽やかさを与えるものだろう。「云っちまった」なあと悔やんだとき(そんなときでなくとも)、ぜひ本書を開いてみてほしい。