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明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

辺境のキュクロプス【評=林真】

丹下和彦『ギリシア悲劇の諸相』(未知谷、2023)

 

 書名だけ見て、難解な研究書だと身構えないでほしい。本書の内容はいたって簡潔だ。ギリシア悲劇(および後述するサテュロス劇)から数篇が選ばれ、それぞれについての概要が語られ、解説が加えられる。同じ著者の『ギリシア悲劇入門』(未知谷、2021)に続く「『ギリシア悲劇勉強会』(劇団『清流劇場』主宰)からの報告」(141)とのことで、本書ではアイスキュロスから1篇、エウリピデスから7篇の作品が取り上げられている。

 

 とにかく要点が絞られているのが良い。一文一文を追っていけば、その悲劇の輪郭をなんとなく摑むことができる。読者が混乱しそうな部分については繰り返し言及される。登場人物や神の名前を混乱しがちな私にはありがたい配慮だ。

 

 要点が絞られているといっても、あらすじや説明が淡々と並べられているということではない。著者の記述は工夫に富んでいる。エウリピデス『タウロイ人の地のイピゲネイア』のクライマックスについての記述を引用してみよう。

 

 万事休す。脱出寸前に危機が迫ります。観客席の各所から悲鳴が上がります。困ったときの神頼み――この作者の作品で「デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)という手法を経験済みの客が(たとえばすでに『ヒッポリュトス』(前428年上演)で使われています)あちこちで声を上げます、「神さまを出せ!」と。これまた観客に劇への参加を促すにくい仕掛けです、シナリオも演出も。劇場騒然。声に応えて舞台上方に女神が登場します。アテナ女神です。歓声はひとしきりやみません。(33-34)

 

まるで著者自身が古代の劇場で実際に上演を見てきたかのようだ。こうした書きかたを実証性に欠けると見る向きもあるかもしれない。しかし当時の観客の反応や悲劇詩人の意図を想像することで、その悲劇の輪郭を摑むことができる場合もあるだろう。本書はその想像の糸口を読者に提供するものなのだ。

 

 特に興味深かったのは、エウリピデスの『キュクロプス』だ。これは悲劇ではなく、競演会で悲劇とともに上演されたサテュロス劇というものらしい。ホメロス『オデュッセイア』の第9歌と同じエピソードを扱っているとのこと。予期せずシケリア島にたどりついたオデュッセウスは、一つ目の巨人キュクロプスに仲間を殺される。そこでオデュッセウスは復讐としてキュクロプスの目を潰す。だが著者は、その目潰しの動機に仲間のための復讐だけを見ない。トロイア戦争の開戦理由を揶揄したキュクロプスの言葉の「封殺」をもそこに見るのだ。著者はキュクロプスについて次のように書く。

 

 一つ目のキュクロプスは双眼のオデュッセウスとは違うところを見ています。オデュッセウスが見ていないものを見ています。盲目の予言者テイレシアス(ソポクレスの『オイディプス王』に出てきます)が晴眼のオイディプスに「あなたは見えているのに見ていない、わたしは見えていないが見ている」と言ったのと同じです。ギリシア世界で双眼の者の誰もが見ず、気付かず、口に出さなかったことを、単眼のキュクロプスのみが見、気付き、口に出したのです(いや、もう一人います、エウリピデスの『オレステス』521~522でスパルタ王テュンダレオスがトロイア帰りのメネラオスに同じような嫌味を浴びせています)。(50)

 

キュクロプスは無法者ないしは逸脱者の立場から法治社会を揶揄批判し、「聖戦」トロイア戦争の虚しさを嗤いました。辺境から中央を撃ったのです。(82)

 

「辺境から中央を撃った」。こう聞くと断然、キュクロプスのことが気になってくる。ディオニュソス劇場で観劇していた古代の人々は、キュクロプスの言葉に何を思ったのだろうか。それを想像しながら、古代ギリシアの物語を読んでみたいと思わされた。