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明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

グローバリズムとリージョナリズム(評=大竹典子)

渡辺京二『近代の呪い』(平凡社新書、2020)

 

 本書はフランス革命や日本の江戸時代などの歴史を振り返りながら、近代とは何だったのかを多方面から考察する。非西洋地域から見るならば近代化とは西洋化に他ならない。その西洋化がグローバリズムというかたちで世界の隅々に浸透した現代世界の課題は何か。

 

 著者の渡辺京二は、歴史学者というよりは作家であり、学界の人ではなく在野の思想家だ。だからだろうか、意表をついた、わかりやすい例を示しつつ歴史の流れを語ってくれる。

 

 渡辺は「近代の呪い」として大きく次の二つを挙げている。それは、自由な資本経済の世界化によりネーション・ステイト間に熾烈な競争が生じ「民族国家の拘束力がますます強化される」ことと、「世界の人工化」である。

 

 ここでは後者に注目したい。「世界の人工化」の説明で、渡辺は興味深いエピソードを紹介している。幕末、西洋人の宣教師から聖書を読まされた侍が「人間が草や木よりも尊いものであろうとは」(149)と驚嘆したというエピソードは特に印象に残った。「人間が草や木よりも尊い」という考えは、近代ヨーロッパに端を発した人間中心主義的な思考に他ならない。このことについて、渡辺は次のように書いている。

 

 世界の人工化ということはその根底に、この地球という実在を人間の便益のために存在する、つまり自然は人間にとっての資源であり、その意味で人間に所属する財産であるという感覚があるからこそ生じるのだと思います。そしてそういう感覚を普遍化したのが、人間を特別視して、人間の便益と快適を至上目的とばかり追求して来た近代だと思います。私が一面ではそういう近代ヒューマニズム、人間は経済的にゆたかになり、便利で安全で快適な生活を送る権利がある、それはどんな人間にも保障されねばならぬ目標であるという近代ヒューマニズムのもたらしたものを高く評価するものであることは、先に申し上げたとおりです。しかし、そのように生活のゆたかさ、快適さの実現が、コスモスとしての世界、自然という実在との交感を断ち切ってしまい、その結果、結局は死すべき運命にあるはかない人間存在を、コスモス=自然という実在の中に謙虚に位置づける感覚を失わせてしまうことになったのを近代の呪いのひとつと思わずにはおれないのです。世界の人工化とは世界の無意味化でもあるのです。(156-157)

 

 注目すべきは、著者が、近代を批判するばかりではなく、「近代の贈り物」(136-141)についても述べていることだろう。西洋近代は「人権・平等・自由」を共有すべき社会的価値として定着させ、近代科学とそれに関連するテクノロジーを人類に供与した。こうした「贈り物」の側面と「呪い」の側面の両義性こそが「近代」の特徴なのではないだろうか。

 

 渡辺は、これからの課題として、最終章で次のように説明している。

 

 グローバリズムとは史上何回も生じた世界の資本主義的市場社会化の波のことでありますが、近年のそれはその最大にして最後のものかも知れません。最後というのは世界の資本主義的市場化が完了すれば、あとに残るのは地球規模の均質的斉一的なモダンライフにほかならないからであります。この資本主義的市場社会化は史上初めて一般大衆の生活にゆたかさをもたらしたのでありますから、たんに否定的にとらえることはけっしてできません。これは人類にとって必要かつ必然なプロセスであったのです。しかし、この波は土地に根ざした人々の共同生活を根底から破壊する力を秘めております。その力の跳梁するままに任せるわけにはゆかないのです。このふたつの要素をどうにかして調和させ、統合する必要に私どもは迫られております。(184-185)

 

 今、わたしたちは経済理念の陰に忘れられたものを再発見していくことを求められている。そしてそれは、前近代の人々がそうしたように、人間存在を自然の実存のなかに謙虚に位置づけ、人間も自然の一部であるという概念を取り戻すことにはじまるだろう。