群れとリゾーム
ジル・ドゥルーズはイギリスのモダニズム作家ヴァージニア・ウルフにいたく惹かれた。これは、なぜだろう?
夢想するに、名前からしてWoolfに惹かれたに違いない。これは彼女の結婚後の姓だが、当然ながらwolfの異綴である。古英語ではwulfと綴り、中英語以降は綴りが定まらず、Wolf, Wolfe, Woolf, Wulfeなどと変化してきた。狼はその名においても形を変えながら群れている。もうこの時点で、じつにドゥルーズ好みではないか。
一方、Deleuzeという姓の由来も気になってくる。調べてみると、Euzeはフランス南部オック地方の言葉でholm oakを指すという説が見つかった。De l’euzeと分解すれば、「その樫の木の場所から」といった意味になり、さしあたり「樫の森の住人」ということになるだろうか。
これは領土的な語源に見えるが、ここからドゥルーズはリゾーム(地下茎)を巡らせて逃走線を描き、自らの名前をも脱領土化したのだと思うと、痛快だ。ちなみに、日本にはholm oakに近い樹木に姥目樫(うばめがし)という木がある。海辺の痩せた土地や強風にも耐え、木でありながら「森の雑草」の異名をとると言う。雑草とはfiller(埋め草)であり、つなぐものであり、リゾーム的である。
そう、ドゥルーズの『千のプラトー』から引けば、「樹木は動詞『である(エートル)』を押しつけるが、リゾームは接続詞『と……と……と……』を生地としている。この接続詞には動詞『である(エートル)』をゆさぶり根こそぎにする十分な力がある」(2010-2011、上巻p60)ということになる。これはあまりにウルフ的である。
ウルフの小説のなにがドゥルーズに訴えたのか。それを知るために、「狼の人」の小説を「森の人」が読んだように読んでみよう。
*以下の表記や訳文引用は邦訳『灯台へ』(ウルフ、2024)に基づく。
灯台へつづく時間
To the Lighthouseはスコットランド沖スカイ島の別荘を舞台とし、そこに暮らす哲学者一家の夏の一日、正確には昼すぎから夜までが描かれる。その後、大きな時間の経過があり、最後に、十年後のある日の朝から午頃までが語られる。狭い時空間を移動する「ほとんどどこにも行かない小説」でありながら、主人公の一人のラムジー夫人が編み目に針をひらりとくぐらせるその一瞬――the momentはeternalでもある――にも、内在平面には膨大な生成変化が起きている。
時間軸は不意にシフトし、テクストのはざまに時空間を超えた世界が出現する。回顧があり、空想があり、願望があり、後悔があり、内と外、過去と現在と未来は継ぎ目も移行部もなしに繋がってゆく。ときにはスコットランドの海を前にコンスタンチノープルの古都が拡がり、木の枝には幻のテーブル(phantom table)が引っかかり、昔の哲学者が目の前を歩き、十年の歳月は一日(いちじつ)のなかに凝縮され、アイオーンの時間が出現する。
そのテクストの折々には、「感性の歯車がわずかに回るたびに、その影や光の射す一瞬を結晶のようにしてとってお」く(p9)というような、ドゥルーズのévénementにおける――スコラ哲学者スコトゥスに由来する――haecceity(此性)を鮮やかに具現化する場面がしばしば現れる。
明るいながらも狭い部屋
ウルフの『灯台へ』を含む諸作品はstream of consciousnessの技法を駆使した「意識の流れ文学」として名高いものの、この類別には注意が必要である。例えば、この手法で知られるウルフの同時代作家にジェイムズ・ジョイスがいるが、ジョイスのそれが樹木のように一人の人間の意識を枝葉末節まで辿っていくものだとすると、ウルフのそれは圧倒的に地下茎的である。この二人の作家の「意識の流れ」に違いがあることは認識していたが、ドゥルーズを読むことでこのように言語化されたのは、自分にとって大きな収穫だった。
話法で言えば、ジョイスはA Portrait of the Young Artist as a Young Manで自由間接話法を完成させた後、代表作Ulyssessでは自由直接話法を多用するが、ウルフの文章のベースは自由間接話法にあり、To the Lighthouseでも内的独白はさほど多くない。
またそれ以上に違うのが視点のとりかたである。ジョイスは固定的であり、ウルフは流動的、遊動的と言えるだろう。後者は三人称複合多元視点文体で、様々な人物視点の間、発話と内心の声、現実と夢想の間をシームレスに行き来し、個人という制約を超えていく。そのなかで人びとは植物に生成したり、椅子に生成したり、「闇の中の楔」に生成したりする。
ウルフのこうしたスタイルを映画研究者・文学者のジェイムズ・ネアモアは、a variety of stream-of-consciousness fiction(意識の流れ文学の一変種)と評している。ウルフは一人物の内的独白(自由直接話法)が長く続く手法はとっておらず、stream of consciousnessという用語は条件つきで使うべきだと言うのだ。ドゥルーズもこの区別には賛成するのではないだろうか。
では、ウルフは年下の作家ジョイスの文体をどのように捉えていたのだろうか。批評的エッセイ“Modern Fiction”(1925、The Common Reader収録)にUlyssessを論評する一節があるので引用する。
心に降りくる原子は降り積む順序のまま記録しよう。光景ひとつ、出来事ひとつが意識に刻みつけるパターンが、いかに繋がりやまとまりを欠いたものであっても、それをただ辿るようにしよう。世の中で重大とされるものには些細とされるものより当然意味があるなどと思わないようにしよう。(鴻巣試訳)
このあたりだけを読んで、Ulyssessへの賞賛ととられることがあるが、まだ先がある。続けて引用する。
(ジョイス流の「意識の流れ文体」をとることで)のびのびと自由になったというより、明るいながらも狭い部屋に閉じこめられている感じがする、それは心の問題のみならず手法によって生じる制限のせいである。そのようにも言えはしないか。(同訳)
ウルフとジョイスには、どんなアプローチの違いがあったのか。ウルフのそれは、前述した“Modern Fiction”の以下の文章からも推し量ることができる。彼女の小説観が浮彫りにされ、此性(haecceity)が生成する瞬間について鮮やかに論じているくだりだ。
内面を見よ。そうすれば、人生とは「このようなもの」とはとても思えなくなるだろう。あるありふれた日、ありふれた人の心をしばし観察してみよ。その心は周りのものごとから無数の印象を受けるであろう――それは些細で、幻のごとき、儚いものであるかもしれず、あるいは鋼の鋭さで刻みこまれるものかもしれない。無数の原子が絶え間なく降りそそぐように、印象は四方八方から到来する。そうして印象が降りきて、例えば、月曜なり火曜なりの暮らしという形をとっていくうちに、以前と違うところにアクセントがつく。大切な瞬間はあっちではなくこっちになる。そうであれば、書き手が奴隷ではなく自由な人間であるなら、「書くべきこと」ではなく「自ら選んだこと」を書き、約束事にとらわれず己が感じるものを作品の土台にできる人なら、型どおりのプロットや悲劇喜劇、恋愛沙汰、大詰め場面などが顔を出すことはなくなるはずである。釦ひとつにしても、ボンド・ストリートの仕立屋が縫いつけるのとは違ったやり方をするだろう。人生とは対照形に配置された馬車のランプではない。人生とは耀く暈輪(halo)であり、意識の始まりから終わりまでわれわれを取り巻く半透明の包被(envelope)なのだ。この絶えず移り変わる、この未だ知られざる、輪郭の定かでない精髄(spirit)を――それがどんな逸脱や複雑さを見せようと――内面を離れた外面的なことを極力交えずに伝えることこそ、小説家の仕事ではないか?(同訳)
ドゥルーズが『千のプラトー』などで用いたlatitude(緯度)とlongitude(経度)という概念も、すでにして明瞭にかつ詩的に表現されていると思う(ドゥルーズを読んでからこのくだりを再読すると、ウルフのほうがドゥルーズを借用しているようなplagiarism by anticipationの感覚が起きる)。
前出のネアモアはさらに、「stream of consciousnessとは、『私』の、個人の、心理に係わるものだとして大方の定義は一致していたが、個人の中にどっぷり浸かることは、Woolfの究極の関心事でもゴールでもなかった」と指摘している。WoolfのJoyceへの異議は「個人のエゴに溺れている」という点にあったのだと。Deleuze的に言い換えるなら、固定化した主体に囚われてアジャンスマンが閉じ、他者との接続が新たな生成を生まない状態ということではないか。
「途中から始める」こと
また、ドゥルーズはリゾームについて、『千のプラトー』でこうも言っている。「リゾームには始まりも終点もない。いつも中間、もののあいだ、存在のあいだ、間奏曲なのだ」(上巻p60)と。
ウルフの小説はTo the Lighthouseを含め、多くがイン・メディアス・レスの手法で書かれている。これはホラティウスが『詩論』で定義した、「途中から・間から始める」という物語の構成技法である。絶対的な起源というものはなく、私たちはつねに生成の只中にいるとするドゥルーズと当然ながら共鳴するところが多々あるだろう。
エコクリティシズムの研究者・結城正美の編著『モア・ザン・ヒューマンの物語 環境人文学10のシークエンス』(結城、2025)を読むなかで、まさにイン・メディアス・レスの技法をreciprocity(互恵性)の表出と捉えるセオリーと出会ったのは幸運な偶然だった。ロビン・ウォール・キマラーの『植物と叡智の守り人』は、創造の物語を創造主の行いではなく、「スカイウーマン」という「移民」の女性が植物の種子を握って空から降ってくる場面から始めている。ノンヒューマン(地球外の植物)とヒューマンによるreciprocityがこの陸地の始まりとするキマラ-の語りは、「人間中心主義を脱臼させ、異なるものたちの協働に光を当てる」(p226)ものだと結城は結論づけている。
ウルフが上の世代にあたるエドワード朝作家、H・G・ウェルズ、アーノルド・ベネット、ジョン・ゴルズワージーらに激越な訣別を告げたのも自然な成り行きだったろう。ウルフにとって、ベネットらは人物の服装や所有物や属性のことばかり書いている人間中心主義者であり、マテリアリストに他ならなかった。「こんなことなら、英国小説はなるべく早いうちに彼らから丁重に背を向けて歩んでいったほうが(その先、砂漠に踏み入ることになろうとも)小説の魂にとってはよいであろう、という気持ちになってしまう」(Woolf, 1925)と記した二十世紀初頭のイギリス作家に、ドゥルーズが快哉を叫んだ理由が、いたって深く納得されるのである。
Works Cited
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Naremore, James. The World Without a Self: Virginia Woolf and the Novel. Yale University Press, 1973.
Woolf, Virginia. Modern Fiction. The Common Reader, Hogarth Press, 1925, pp. 146–154.
Woolf, Virginia. To the Lighthouse. Hogarth Press, 1927.
Woolf, Virginia. The Waves. Hogarth Press, 1931.
ドゥルーズ,ジル.『記号と事件――1972–1990年の対話』宮林寛訳,河出書房新社,河出文庫,2024年.
ドゥルーズ,ジル,フェリックス・ガタリ.『千のプラトー――資本主義と分裂症』上・中・下,宇野邦一ほか訳,河出書房新社,河出文庫,2010–2011年.
ドゥルーズ,ジル,クレール・パルネ.『ディアローグ』鈴木創士訳,河出書房新社,河出文庫,2011年.
ウルフ,ヴァージニア.『灯台へ』鴻巣友季子訳,新潮社,新潮文庫,2024年.
アウエルバッハ,エーリッヒ.『ミメーシス――ヨーロッパ文学における現実描写』篠田一士・川村二郎訳,筑摩書房,ちくま学芸文庫,1994年.
結城正美編著.『モア・ザン・ヒューマン――マルチスピーシーズ人文学と環境倫理』人文書院,2023年.