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明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

言葉に操られて【評=中野行準】

大竹伸朗『見えない音、聴こえない絵』(ちくま文庫、2022)

 

 大竹伸朗の言葉はおもしろい。ありふれた言い回しでは語り難いなにかを、あるときは造語によって、あるときは思いもよらない語の連結によって表現する。目次をさっと眺めてみるだけでもそのことがわかるだろう。「絵の根っこ」「スケッチブックの無意識」「蹴景」「トースト絵画」「高野山のミシン針」「消動と衝去」、興味を惹かれる言葉が並んでいて、どれから読み始めようかと悩んでしまう。

 

 これらの独特な題名の文章で語られる内容は、作品制作時の葛藤や、子供時代の記憶、イギリス留学時代のことなど、幅広い。さまざまな感情や記憶と大竹自身の作品とを絡めて語られる部分もあるから、この本を大竹自身による作品解説として読むことも可能ではある。しかし、私は本書を、美術家と言葉の関わりという点に注目して読んだ。本書は2004年から現在まで続く月刊誌での連載をまとめたもの(の文庫版)だが、この連載が大竹に彼自身の制作や作品について言葉で表現することを継続的に強いていたということは想像に難くない。そしてそのことは彼に、言葉にできないなにかを言葉で表現することの難しさに直面させただろう。

 

 「赤い理不尽」と題された文章のなかで、「道理のない動機を言葉で捕らえようとすると、途端に頭の中の言葉が散りはじめる」と語られているように、言葉は「道理のない」ものを捕らえることには向いていない。とはいえ沈黙はなにも生みださない。この文のすこしあとのところで、大竹は彼の頭上に漂っている得体の知れないなにかを描写しようと試みる。

 

 抜けるような青空を思い浮かべる。その中空でゆっくりノラリクラリ形を変え続ける巨大アメーバに似た透明な雲のイメージ、こいつが自分の思い描く理不尽というやつなのかもしれないと思った。(中略)アメーバ雲を通して見上げる青空は微妙に屈折した色彩をグニョグニョと投げかける。(168〜169)

 

 「理不尽アメーバ」と名付けられたそれは、大竹にとってある特権的なイメージとして、制作を進める原動力となっていくだろう。このとき言葉は美術家にとって、名付け、説明するためにではなく、別の角度から見、いまあるのとは別の「道理のない」なにかと出会うために使われている。そのために美術家は言葉を手探りで見つけ出していくのだ。

 

 あるいは、言葉は降ってくる。大竹があるトークイヴェントに参加したときのこと。彼が予期していなかったタイミングで、制作のきっかけについて問われると、「ふと「誤解」という単語が口をついて出た」。

 

 思いと言葉がズレたままその単語がポロッと頭上に落ちて来た。(184)

 

 このズレこそが重要だろう。繰り返すが、言葉は「道理のない」なにかを完全にあらわすことはできない。だから、そこにはズレがある。ふと口をついた「誤解」という単語には「変則的な動きを繰り返すバクテリア的なイメージ」が伴っていたと大竹は続けているが、「バクテリア」や「アメーバ」が持つ予測不可能な運動こそがズレを生み出すのではないだろうか。そして大竹はそのズレを使い、制作を進めていく。いや、微生物の予測不可能性を考えれば、むしろこう言った方が正確ではないか。大竹はズレに使われて、制作を進めていく。大竹の言葉がおもしろいのは、彼が言葉を操るのが上手いからではない。言葉に操られるのが上手いのだ。