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明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

「支払われない労働」の重量差【評=大洞敦史】

I. イリイチ『シャドウ・ワーク 生活のあり方を問う』 (玉野井芳郎/栗原彬訳、岩波現代文庫、2006) 

 

 台湾の人に、東京出身だと自己紹介すると、7割くらいの確率で「便利な町ですよね、いいなあ」などと言われる。


「必ずしもそうではないですよ。満員電車での通勤通学は非人道的だし、住宅地と商業地域がはっきり分かれていて車やバイクを持っている人も少ないので、自転車に乗れないお年寄りは野菜を買うにもバスに乗らないといけないし、親が田舎にいる若い夫婦は勤めながら家事育児をこなしているし、シングルマザーとかファザーならもっと大変です。少子化とはいえ、受験や就職活動のプレッシャーは依然として大きい。やっと就職できたとして、20代の手取り月収は20万円ちょいですが、そのなかから家賃、光熱費、通信費、食費、保険料、服飾・化粧品・理髪代などを引くと、貯金もろくにできないし、外へ遊びに行ったり飲み食いする余裕もないので、休日は家にこもってSNSや映画を見たり、スマホゲームをして過ごす人が多いんです。収入は多少低くても、台湾のほうがずっと便利な生活ができますよ」……などと返したい気持ちになるが、初対面の人にそこまで言っても互いに何も得るものがないので、大抵はさらりと受け流すだけだ。


 逆に、台湾に対して憧れに近い感情をいだく日本人も、増えつつあるように思う。毎年おびただしい数の台湾本が出版されているし、タピオカブームは鎮まったが、台湾関連のイベントはどこもにぎわいを見せている。私は台南という地方都市に12年暮らすあいだ、台湾好きな日本人に数えきれないほど会ってきた。3年間で50回以上も台南に遊びに来た熱狂的な人もいる。


 いったい台湾の何が、ここまで日本の人々を引きつけるのだろう。タピオカミルクティーやルーロー飯の奥にひそむ、魅力の核心は何なのか。そんなことを考えていてふと思い出したのが、学生時代に読んだこの本である。

 

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 タイトルになっている「シャドウ・ワーク」とは、産業経済のなかで賃金を受け取る労働を行うために、当人または家族が行わなければならない「支払われない労働」を指している。思想家イヴァン・イリイチにより、1980年ごろ提唱された概念だ。その最も顕著な例として、女性に求められる家事が挙げられており、さらには「買物に関係する諸活動、家で学生たちがやたらにつめこむ試験勉強、通勤に費やされる骨折り」(208)なども含まれる。


 これらは現代の経済システムに深々と組み込まれており、イヤだからといって、容易に取り外せはしない。「〈シャドウ・ワーク〉の支払われない労働というかたちは、賃金が支払われていくための条件である」(209)。


 賃労働とシャドウ・ワークは、相互補完的な、密接不可分の関係にあるが、金銭を尺度に順位づけられる社会において、両者に対する見方には、天と地ほどの開きがある。お金を家にもたらす仕事は尊く、本質的なものであり、そうでない仕事は周縁的で、たいした価値もないが、それにも関わらずほぼ強制される。そんな矛盾が、疑問を呈されることもなく存在してきた。


 このような労働の差別化は、それに従事する人への差別化、ジェンダーの不平等とも密接につながっている。動物行動学者・人類学者・社会学者たちは、生産者である男とそれを補助する女という形態が、人類ひいては動物界に普遍的なものであることを示す例証をかき集める。


 しかしイリイチによれば、こうした「経済的二分岐」と「両性間のアパルトヘイト」は、「十九世紀的労働観念」によって確立されたものだ(225)。


 一方、賃金の支払われない労働という点では共通しているが、シャドウ・ワークとは性質の異なる、「日々の暮らしを養い、改善していく仕事」として、イリイチが積極的な意味を与えている活動がある。それは「ヴァナキュラー(vernacular)」という言葉で表される。訳者の玉野井芳郎氏はこれについて次のように補足している。

 

それは、生活のあらゆる局面に埋め込まれている互酬性の型に由来する人間の暮らしであって、交換や上からの配分に由来する人間の暮らしとは区別されるものなのである。(311)


 このほかにも、”subsistence”というキーワードがある。これはイリイチの先達である経済学者カール・ポランニーの重視した概念で、「地域の民衆が生活の自立・自存を確立するうえの物質的、精神的基盤というほどの意味」(314)だと玉野井氏は書く。本書では「人間生活の自立・自存」と訳されている。


 本書は、シャドウ・ワーク、ヴァナキュラー、人間生活の自立・自存という三つの多義的な概念について、独特の歴史観をもつイリイチが、次から次へと歴史上の事例を引き合いに出しながら解説したものだ。初めはとっつきにくいが、読み進めるほどにイリイチの主張や、彼の思想が包含する途方もないスケールの大きさが感じられてくる。同時に私たちの多くが当然だと見なして疑わない社会システムや日常活動のもろもろについて、いま一度問い直すための視座を与えてくれる。

 

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 国や地域を異にしても、仕事そのものはさほど変わらない。農家は作物を育て、パン屋はパンを作り、作業員は工場でものを作り、商店は品物のよさをアピールし、葬儀屋は粛々と儀式を執り行う。しかし、そうした仕事を継続して行うために、勤務時間以外に日々こなしているシャドウ・ワークが当人にもたらす負担の大きさは、社会によって明確な差異があるように思える。


 例をあげよう。私が台南で蕎麦レストランを営んでいた頃、面接に来た人の住まいがバイクで片道15分以上かかる地域だと、一抹の不安をぬぐえなかった。そして案の定、長続きせず辞める場合が多かった。台南の人にとって、15分という通勤時間は「長い」からである。


 またシングルマザーとしてお子さんを連れて台湾へ渡り、再婚と出産も経験し、現在台北在住ライターとして活躍している近藤弥生子氏は、エッセイ集『台湾はおばちゃんで回ってる⁈』(大和書房)のなかで、働く妻・母親にかかる負荷を分担してくれる数々の台湾の制度や互助的な人間関係の体験例を数多く紹介している。


 このような、シャドウ・ワークが生活に占める度合いの差が、海外の人々から見ると台湾の人々が、台北の住民から見ると台南の住民が、よりゆったりと人間的な暮らしを営んでいるように感じる理由の根幹ではないかと、読み返してみて思った。


 「地図にない町を探したきゃ、最初に地図が必要だ」とはさだまさしの歌の一節だが、現状を踏まえて、より望ましい社会や個人の生き方を見出すためには、現代の枠組みを相対化できる視座が必要だ。イリイチのそれは中世ヨーロッパだった。日本やアジア諸国の近代化以前の社会も、その可能性を有していることだろう。