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明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

嗜好品としての詩? 【文=管啓次郎】

(たばこ総合研究センター「TASC」2023年6月号に寄稿した「詩をつかまえるために」と同時に書いた短文です。どちらにするか迷ってひっこめたほうの文章ですが、よかったら読んでみてください。)

 

 自分は詩には無縁だと考えている人が多い。現代生活を見ていると人はさまざまなジャンルを区分けしてはその大部分が自分には無関係だと思い、ほんのいくつかを選んで興味をもったりその活動をしたりするのがあたりまえになっているようで、それがひとりひとりの人生を非常に狭くてつまらないものにしている場合が多いように思う。細分化・専門化・商業化は足並みをそろえてやってくる。小学校以来の時間割、クラス分け、課外活動、習いごとなどがそんな習慣を助長しているのではないか。どうもそんな気がしてならない。

 

 けれども詩に無縁の人はいないのだ。言葉を覚えてそれによって世界を理解し生活を組み立ていろいろなできごとを記憶している以上、誰もが自分の詩をもっている。過去に経験したある強い情感が言葉の小さなかけらにより甦ってくることがあればそれはすでに詩の時間のはじまりで、詩は詩というかたちをとらなくても日常生活の中におびただしく見つかる。ほら、猫がふりかえった。その文だけでも猫好きな人にとっては想像力を始動させるのに十分なはず。窓から猫が見ている。そのセンテンスにぶつかることは実際にその情景に遭遇するのとおなじくらい、人の気分を一瞬で変える。詩はこの効果の延長線上にある。

 

 嗜好品というとまずコーヒーやお茶や煙草や各種の酒だろうか。飲食物として生命維持のために必須ではなくても、それを摂取することにより確実に気分が変わる。生活がどんな活動からなっているにせよ、その「嗜み」のための時はそのときの活動のいわば句読点となってリズムを生み、小さな再始動を準備してくれる。いうまでもない。体内にとりこまれる物質はたしかによく効くが、たとえば運動とか音楽とか美術とか手仕事とか、物質を用いることなく瞬時に意識を変え別の方向にむかわせる活動だっていくらでもあるわけだ。

 

 そしてちょっと考えてみるなら、詩という言語の経験はそれ自体非物質的な嗜好品摂取でありながら、いまあげたすべての経験を呑みこんでいるともいえるだろう。詩とは言語的な酒であり煙草でありコーヒーやお茶であり、手すさびであり美術であり音楽であり運動だ。人間がなんらかの活動を組織することにも記憶することにも言葉が全面的に関わっている以上、こうしたすべてがじつはつねに詩とともにある。きみも詩を読んでみるといい。書いてみるといい。それは特別なもの/ことではないとすぐにわかるはずだ。