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明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

知っているつもりで知らないこと【評=林真】

神本秀爾/河野世莉奈/宮本聡編『ヒューマン・スタディーズ——世界で語る/世界に語る』(集広舎、2022)

 

 知っているつもりで知らないことというのは無数にある。そのことを繰り返し思い出させてくれる本だ。

 

 本書には、主に人文社会科学の分野で活躍する書き手たちによる28編のエッセイ・コラムが収録されている。編者による「まえがき」をみてみると「本書は、わたしたちの身の回りにあるものごとをテーマに、人文社会科学の学びの入り口となるように自由に書かれている」(9)とある。その言葉の通り、掲載された文章は大学の新入生や、おそらく高校生にも読みやすいと思われる語り口のものばかりだ。たとえば、教室で先生がみずからの研究についていきいきと語っている様子を集めたような本、といえば少しは雰囲気が伝わるだろうか。

 

 それぞれのエッセイ・コラムの内容は多岐にわたり、いっけんあまりまとまりがないようにも思える。しかしだからこそ、普段は深く考えないままでいた話題が目に飛び込んでくるはずだ。たとえば「校区」という区分けについて大人になってから考えたことはあるだろうか(木下寛子「ヤギのいる学校、ヤギのいるまち——「子どもが歩ける距離」を生きていく」)。あるいは大人気漫画『鬼滅の刃』に登場する鬼という存在のあり方についてはどうだろう(福田安佐子「本当の「鬼」とは「何」か?——ゾンビ映画のヒロインたちの系譜に『鬼滅の刃』を位置付ける」)。あるいは霊が<いるかどうか>について最後に本気で考えたのはいつだろうか(河西瑛里子「人の目に映らない霊たちはいないのか?」)。このように本書は、私たちが普段なんとなく了解しているつもりだったことに関して<本当に考えたことがあるかい?><本当に知っているかい?>と幾度となく問いかけてくるのだ。

 

 もうひとつ、私が感銘をうけたエッセイを紹介しておこう。それは野口雄太「災害と家——建物の復旧と住み続けることをめぐって」だ。このエッセイでは、野口が熊本地震の被災地でのボランティア活動中に出会った50代後半の男性Tさんと彼の家族のことが語られる。地震によってTさんが母親と暮らしていた家は倒壊、ふたりは避難生活を余儀なくされた。被災当時、Tさんの配偶者と娘は娘の通学のためにTさんと別居していた。また息子は熊本市内で配偶者と子どもと3人で暮らしていた。そうした状況で、Tさんたちがどのように自宅を再建したのかが語られるのがこの文章だ。

 

 野口はあくまで淡々とした筆致で、Tさんたちの状況と行政が提供する支援制度(仮設住宅など)との絡みあいがTさんたちの日々の行動を決定し、さらにはTさんたちの人生を変えてゆくさまを描き出す。私が心を動かされた場面を引用してみよう。

 

 さて、そのような生活が半年ほど続き、被災から一年が経ったころ、Tさんの息子世帯が村に借家を見つけて引っ越してきた。嫁と子を連れ、元の家とそう遠くないところに住み始めた彼は、熊本市内での仕事を辞め、Tさんが農業の傍らで営む会社に転職し、父を助けることにしたのである。この決心について彼は、いつかは郷里に戻って農業を含めて家業を継ぐだろうと考えていたところに地震が発生したので、それを少し前倒ししただけだと簡単に話す。その選択へと至る悩みについて多くを語らない彼だが、災害を契機として転職・転居し、自身と一家の生活を安定させるために彼が果たしたことは、家の再建までを通して、極めて大きなものであったと筆者は言いたい。(234)

 

心を動かされたと書いたが、それはなにも世にいう家族の絆うんぬんに感銘を受けたからではない。そうではなく<被災した人たちがその後どのように暮らしていくか>ということにおけるあらゆる場面に当事者たちそれぞれの決断があるという当たり前のことに思い至ったからだ。

 

 もちろん、今までそうしたことに想像をめぐらせたことがなかったわけではない。しかし私は、どのくらい真剣にそのことについて考えていただろうか? そう、このエッセイもまた私に<本当に考えたことがあるかい?>という深い問いを投げかけてくれたのだ。そんな問いを求めて、ぜひ28編の「語り」に耳を傾けてみてほしい。