Coyote Reading

明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

ポケットに俳句を【評=管啓次郎】

Sam Hamill. The Pocket Haiku. Shambhala, 1995.

 

 飛行機の中で読むのに文字がつまっていると目が疲れるので、俳句本を空港で買った。サム・ハミルによる『ザ・ポケット俳句』、コロラド州ボウルダーのシャンバラから出ている。そもそも俳句の知識がほとんどないので、大変に楽しめた。読んで、日本語原文が思い出せるものはあまりおもしろくない。英語の3行詩として読んで、独自の情が感じられるものがいい。3行には音節が5・7・5になっているものも、どうもはずれているものもあるが、それは気にならない。英語で音節数をそろえるのと日本語でそうするのとはそもそもちがう。イメージの組み立てにもっぱら注意がひきつけられる。全体はバショー、ブソン、イッサ、その他の詩人という4部構成。おもしろいと思ったものをいくつか見ておこう。

 

 バショーからはたとえば

 

なんと貴いことか!

稲妻の一閃のうちに

悟りを得ないお方は

 

娼婦と僧侶

われらひとつ屋根の下にねむる

シロツメクサの野には月

 

蝉の鳴き声のうちに

示唆するものは何もない

かれらがいましも死ぬのだとは

 

バナナの木が

風に吹かれて雨滴をこぼすのだ

バケツに

 

仏陀の誕生日

斑点のある鹿の子が生まれた

ただそれだけ

 

明るい秋の満月が

私に一晩中歩かせる

この小さな池のまわりを

 

 つづいてブソンからは

 

稲妻一閃──

水滴の落ちる音が

竹やぶで聞こえる

 

僧侶らしい貧しさ──

長い寒い夜を徹して

木で仏陀を彫っている

 

さようなら。おれはキソの道を

これからひとりで行くよ

秋とおなじく老いて

 

下着をつけていないので

裸の尻がいきなりさらされちまった──

春の突風のせいで

 

この寒い冬の夜

あの古い木彫の仏陀の頭は

さぞよく燃えることだろう

 

雨季の雨だ

名前のない川沿いでは

恐怖にも名前がない

 

 そしてイッサでは

 

こうして春が始まる。古い

愚行がくりかえされ、

新たな過ちが発明され

 

野良仕事をする人々に

心の底からお辞儀をします。

では、ちょっと昼寝するよ。

 

わが蚤たちよ、おまえたちにとっても

夜はゆっくりとしか過ぎないね

でもさびしがらせはしない

 

おかあさん、ぼくは泣く

海を見ながらあなたを思って

海を見るたびに必ず

 

遠い山々が

とんぼの目に

映っている

 

老いた犬がじっと

耳を傾けている、まるで

みみずの仕事歌を聴くように

 

おお、秋の風よ

おれの行き先を教えてよ

それはどんな地獄なのか

 

あちこち蚤にくわれているが

彼女の若くきれいな肌の上では

その跡も美しい

 

長い昼寝のあと

猫があくびをし、立ち上がって、出ていく

愛を探しに

 

 以上、3人の巨匠以外の詩人からは、別に理由はないがキカクの次の詩だけをあげておこう。ちょっとウィリアム・ブレイクを思わせる想像力だ。

 

タロイモの葉っぱ一枚に

水ひとしずくの全生涯が

含まれている

 

 1時間ほどで読めてしまう薄くて余白の多い本だが、目が覚めるような瞬間がいくつもあり、また俳句という短詩に対する興味をかきたてられるには十分だった。特に思ったのは、一茶のおもしろさとモダンな感覚。そして芭蕉、蕪村以来のすべての俳句的な感受性に底流として流れる、禅仏教的な感覚の強さだ。

 

 「あたりまえでしょ」などといってはいけません。決まり文句としてそうした判断を聞くのと、自分がそれを作品をつうじて体験し納得するのとは、まったく別のことなのだから。サム・ハミルによる英訳というフィルターを通して、俳句というジャンルにまた出会い直すことができたようだ。誰よりも、一茶。こんどまとめて読んでみよう。