Coyote Reading

明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

鹿の島に舞う蘭の花【文=大洞敦史】

陳耀昌『フォルモサに吹く風 オランダ人、シラヤ人と鄭成功の物語』(大洞敦史訳、東方書店、2022)


 台南で経営していた蕎麦屋に、ある日珍しいほど鼻筋と頬骨の目立つ年配の紳士が来られ、2冊の著書をくださった。『福爾摩沙三族記』『島嶼DNA』という。前者は17世紀オランダの植民地でフォルモサと呼ばれていた台湾を舞台にした小説で、後者は台湾の人々の遺伝的特徴について病理学の見地から考察した本だ。


 その人は陳耀昌という名の医師で、血液の病気の専門家だった。


 「よかったらこの本を日本語に訳していただけませんか。台南の物語なので、台南に詳しい日本人であるあなたに、ぜひお願いしたいのです」と言われて渡された『福爾摩沙(フォルモサ)三族記』を、その日から読み始めた。


 伝道への情熱を燃やす父・ハンブルク牧師(実在の人物)に連れられ、デルフトからフォルモサへやってきた少女マリア。一家が暮らし始めた原住民シラヤ族の集落・麻豆社の、長老の娘ウーマ。そして若い頃は船乗りとしてアジア諸国をめぐり、のちに鄭成功麾下の水軍司令官としてオランダ勢力と戦う陳澤(ちんたく)という、三者の視点が代わる代わる切り替えられながら物語がつむがれていく。


 恋愛、労働、商売、狩猟、教会の布教や教育活動、異なる集団に属する人々との交流などといった日常生活のところどころに差しはさまれる登場人物たちの台詞や心の声は、しばしば、作者個人の分析と反省を代弁しているようにも見える。


 一例として、シラヤ族の青年たちが仕留めた鹿をかついで集落へ戻るさいにこんな囃し歌がうたわれる。

 

 “シラヤは沢山のフェンラン(鹿)がいてこそ美しい
   秋にだけ狩り春には狩らぬ
   二頭だけ狩りそれ以上は狩らぬ”


 ほとんど農耕を行わず(オランダ人はシラヤの人々が籾を手で一粒ずつ摘んでいるのを見てあきれかえった)、狩猟を生活の核にしてきた彼らは、鹿の生息数と人口のバランスを保つことに注意を払ってきた。夫が40歳になるまで出産は許されておらず、妊娠したウーマは民族の祭司でもある姑から強引に堕胎させられる。また集落の間でいさかいが起きるとしばしば刃傷沙汰に発展し、そこで相手の首を斬り取ることが勇士の証とされていた。オランダ人はこうした習慣をおぞましく思い、禁止しようとした。が、実はそれらは人口を一定数に保つための決まりごとでもあったことが、物語を読み進めるうちに理解できてくる。


 やがて、オランダ東インド会社が労働力と税収の確保のために中国大陸沿海部の人々にフォルモサへの移民を奨励するようになる。それは原住民族にとって、今日にまで続く果てしなき苦難の始まりとなった。移住してきた漢民族のなかには、大規模な罠を仕掛けて一度に何百頭もの鹿を捕らえる者たちもあった。オランダ東インド会社は原住民に狩猟を制限する一方で、漢人に狩猟の権利を売り、さらに鹿の皮を買い取り、ヨーロッパに送って莫大な利益を上げた。


 大陸からの移民はほぼ全員が男性であり、彼らは原住民の女性と結婚し、多くの子を成した。母系制であるシラヤ族では女性が土地を所有するが、それは実質漢人の夫のものとなってしまう。「三十年も経たない内に、麻豆社の女性と土地の大半は漢人のものになってしまうだろう。君たちフォルモサ人はよくよく警戒しておかなければならないよ」と元行政長官の息子はウーマに言い残し、長崎へ旅立った。


 こうした現代世界への警鐘とも読み取れるような記述から、ロマンチックなやりとり、合戦など、さまざまな色合いを見せながら物語は進み、終盤、マリアはある漢人との子を身ごもることになる。オランダに一緒に帰ろうとせがむ妹に、彼女は言う。

 

私はここに残ると決めたの。私は永遠に麻豆社のマリア、フォルモサのマリア、台湾のマリアでいたい


 この台詞は、本文の最後に記された「台湾福佬人(福建南部出身者)のオランダ人祖母に、謹んで本書を捧げる」という言葉とつながっている。


 現代台湾に暮らす漢人の祖先が、オランダ人の女性とされているのにも理由がある。鄭成功がオランダ勢力を屈服させた後、一部のヨーロッパ系女性は高位の漢人の側室にされた。いっぽう鄭成功の軍門に降るのをよしとしなかった一部の兵士たちは山地に逃れ、なかには原住民の女性と結婚する者もあった。そのため現在、漢人のなかでヨーロッパ型の遺伝子を持っている者は、その祖先が女性であり、原住民の場合はその祖先が男性であると考えられる、と著者はいう。『島嶼DNA』によると、現在の台湾人約2300万のうち、ヨーロッパ型の遺伝子を持つ者は100万人にも上るという。


 陳耀昌は、陳澤の末裔にあたる。ある日親戚の伯父から「私らのご先祖様にはオランダの女の人がいたんだ」と言われ、衝撃を受けたそうだ。父親や自分の身体の特長を考えても合点がいった。ところが、しばらく経って再び伯父に会ったさい詳しい話を聞かせてもらおうとすると、伯父は「私はそんなこと、言ったかね?」と、まるでおぼえていなかった。その場の軽口に過ぎなかったのだ。


 陳は失望したが、それでも自分の先祖にオランダ人がいるかもしれないという、期待の込められた疑問を持ちつづけ、オランダ統治期の研究に没頭するようになった。その成果の一つとして生まれたのが、本書である。