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明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

何もしないことを受け入れるために【評=大洞敦史】

石飛幸三『「平穏死」のすすめ──口から食べられなくなったらどうしますか』(講談社文庫、2013)

 

 死は、生けとし生きるものに共通の終着点だ。しかしそこに至る道のりはさまざまである。突然死、長い苦痛の末の死、穏やかに迎える死……。なるべく苦しまずに逝きたいとは誰しも願うが、それには一体どんな形があるのかを、およそ八割の人間が病院で死を迎える社会に生きている私たちは、なかなか直に知る機会がない。ならば、幾多の死に立ち会い、死の有様を観察してきた人は、どんな見方をしているのだろうか。

 

 著者は、東京都世田谷区にある特別養護老人ホームの常勤配置医という全国でも珍しい立場で、お別れを日常とする場に長年身を置いてきた。それはまた、入居者の家族の感情とも長年向き合ってきたということだ。

 

 本書は、老衰末期の家族をもつ人々に、どこまで医療を受けさせるべきかを考えてもらうために書かれたものだ。

 

 ものを食べられないほどにまで老衰が進んだら「できるだけ自然に沿って対応した方が、本人が楽に最期を過ごせる」。死には本来苦しみはない、という信念を著者はもっている。

 

 自然に沿った対応とは、本人が必要としている以上の栄養や水分を与えない、というのを主とする。過剰な栄養と水分は、体に負担をかけ、苦痛の元になる。

 

何もしないで安らかに看取ること以上の看取りはないのです。(45)

 

入所者が食べられなくなってからの最後の数日間の様子を見ていると、喉の渇きや空腹を訴える方に出会ったことがありません。何も体に入っていないのにおしっこが出ます。自分の体の中を整理整頓しているかのようです。(中略)このような状態では体から自然に麻薬様物質であるエンドルフィンが出ると言われています。だから苦痛がないのだと言います。私にはその感じがよく判ります。(89-90)

 

 著名医師の日野原重明氏も、解説で「老衰から生じる脱水は、苦痛の少ないゆるやかな死を当人にもたらしてくれます」と、はっきり述べている。日野原氏はまた「自然に反したものはどんなものでも苦痛を与えるが、老いとともに終局に向かうものは、およそ死のなかでももっとも苦痛の少ないもの」だというプラトン(『ティマイオス』)の言葉も引く。

 

 自宅で最期を迎えることが一般的だった時代・社会の人々も、経験的にこのことを知っていた。ある日三宅島に住む男性が、入院中の高齢の母親に会いに来て、著者に涙ながらにこう話したという。「三宅島では、年寄りがものを食べられなくなったら、水を与えるだけです。そうすると苦しまないで静かに息を引き取ります。水だけで一か月は保ちます。」


 その男性は、病院で勧められるまま延命治療を行うことに同意し、後悔することになった。

 

 しかし家族にとってみれば、生命の火が消えようとしている人を前にして、何もしないでおくほど心痛むことはない。また医師からすると、何もせずに患者が死ぬと、刑法第219条の保護責任者遺棄致死罪に問われる恐れもある。そうして当人は病院に運び込まれ、点滴や経鼻胃管や胃瘻(ろう)による栄養注入、酸素吸入などがなされ、一度下ってきた坂を、再び重荷を背負って登らされる。

 

 医師も、忸怩たる思いをかかえながらそうしている場合が多い。医師を対象にした調査によれば、単なる延命処置は要らないと考える人が八割強を占めている。

 

 私は先日、岐阜県にある在宅医療法人専門クリニック「かがやき」を視察する機会があったが、そこでも患者の家族に向けて次のように言われていた。

 

「自宅での最期の瞬間には、必ずしも医者も看護師もいりません。ご本人とご家族の大切なお別れの時間として、水入らずで過ごしていただくのがよいと思っています。連絡をいただくのは、お別れをした後からでけっこうです。」

 

 冒頭にも書いたが、私たちの多くは、備えのないまま、ある日突然、家族や自分自身の終末期に面と向かうことになる。そして大きな決断を迫られる。

 

 日頃から、死を迎えようとしている身体と心についてより深く知り、かつ、希望する死に方を考えておくことが、望まない形で人生を終える恐れを減らすことにつながるはずだ。そのために本書は大きな示唆を与えてくれる。有備無患(そなえあればうれいなし)。