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明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

私の中の一本の桜【評=管啓次郎】

イリナ・グリゴレ『優しい地獄』(亜紀書房、2022)

 

この本についてはいずれもっと長く書くつもりだが今は引用から始める。「桜が枯れた冬、木を薪にして暖炉にくべた。木の声が聞こえた。歌っていると思った。私が子供の時に歌っていたのと同じ歌。そして匂いが家に広がった。その時にわかった、この世の中の生き物は終わりがあるけれど、最期にはその命が持っている本質が表れる、と。家の桜は毎年、綺麗な花を咲かせ、おいしい実をたくさんつけ、おしまいに私たちの家を暖めてくれて、本当に美しい生き物だった。私の体が透明であれば、今でも胃袋から肩のあたりまであの一本の桜の木が見えるだろう。自分の体に生きている。あの時は私が桜の木の内側だったが、今は逆になって、私が外側で桜の木が私の内側にある。」ルーマニア人の人類学者によるオートエスノグラフィーの一節だが日本語で書く彼女の文章に目をみはった。魂がこもっている。光も熱も冷たさも死もある。命の匂い。真に驚くべき傑作が生まれた。