Coyote Reading

明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

南端を探す【評=谷口岳】

真木悠介『南端まで——旅のノートから 定本 真木悠介著作集 IV』(岩波書店、2013)

 

 「南端」とはどのような場所だろう。その言葉から人がイメージするのはどのような風景か。本書を手に取ってまず目を引かれるのは、エッセイのページとページのあいだに挿入された著者の手による旅の写真だ。ペルー、ボリビア、メキシコ、インド、1980年代後半から1990年までのものがほとんどだが、70年代半ばに撮影されたものも混じっている。旅先で出逢うその街で暮らすひとびと。どのようなカメラを使っていたのかは分からないけれど、細いオレンジ色のデジタル表示で日付が刻印された写真は、旅行者が目についたものをコンパクトなカメラで気軽にスナップ撮影していた様子を想像させる。フィルムで撮られたそれらの写真は、露出がややオーバー気味になると途端に画面が荒れている。旅の荷物はちいさい方がいいのだからコンパクトなカメラを持っていたのではないかという想像は、その荒さからの連想でもある。

 

ぼくはこれまで、ひとりで旅をするということに、ひどくこだわってきたように思う。

ぼくにとって旅は、なによりもまず、魂が自分を脱して飛翔する時であったから(略)

(「方法としての旅」163)

 

 旅をひとりでする理由には事欠かない。まず旅は予定どおりに進むものではない。その場の思いつきやその場しのぎに誰かをつきあわせることの申し訳なさや煩わしさを経験すると、旅はひとりでする方が気楽だと思うようになる。だが真木は次のように続ける。

 

けれども二人づれや集団の旅は、ひとりの旅にはないゆたかさとひろがりをもつことができるということを、ぼくはようやく、わかりかけてきた。世界はみちづれ(たち)をとおして、幾層にも異なったひびきをもって、ぼくたちに呼応してくる。(同掲)

 

 旅の同行者のまなざしを共有することによって、旅はゆたかになるというのだ。大人の男がひとりでいく旅は、女性や子供や障害者が旅のなかで感じる壁を知ることはない。それは「ぼくたちがおきざりにしてきた」ものだという。そんな旅は貧しく、「世界はみえないまま」済んでしまうだろう。これは旅に限らずマジョリティが、少数者や被差別者が日常生活のなかで感じるものを知らないといわれていることと重なる。日常の困難さは旅のなかではなおさらだろうし、旅であるからこその困難さがさらにうまれるだろう。旅はそれを知る契機としての価値を持っている。

 

 旅のみちづれとしての他者は「世界を現前せしめる主体のまなざしの一部であり、世界を開示する主体の行動の一部分である」。わたしたちがあたらしい世界に出逢おうと出かけていく旅が、もっと開かれた世界に出逢うことなく終わってしまうなら、自分の側にその理由があるなら。「同行二人」とは、わたしが二組の眼をもって遍路することだという。それは「横にいる他者」との関係論だとも書かれている。わたしが世界をあたらしい視覚から見ることができるなら、そのときのわたしはこれまでの自明な「わたし」とは違うものになり始めているのかもしれない。ただそれでもまだ「ぼくはほんとうは、ひとりで旅をしたいという抑えがたい衝動を一方にもてあましていて」、「わくわくしながら引き裂かれている」という。このことは、自分の感覚からもよく分かるように思えた。

 

メキシコから日本に帰ってしばらくのあいだ、奇妙なことがつづいた。バスを待っている時間が多くなったのだ。

(「狂気としての近代 ——時間の比較社会学・序」143)

 

 わたしたちが引き受けそれを自明のものとしてきた「近代」。旅はそれからの飛翔や離脱をわたしに与えてくれるだろうか。旅はまず自分のなかにある「時間感覚」への揺さぶりを仕掛けてくる。メキシコの旅から帰った真木は、東京でバスを待っている時間が多くなったという。時間とは効率を測るものだ。何分のバスに乗るにはその何分前に玄関を出なくてはという生活をかつては送っていたのだが、旅のあいだそういうことから離れ、帰ってきてからもその旅の感覚のまま日常を送っているものだから「バス停の光の中の、安らいで充実した時間」のなかで過ごすことが多くなったという。

 

 時間を効率で測る価値観は、ひとの日常生活に規律のあるルーティンを刻み込み、それが当たり前になったときにはもういろんなことを手放している。そして、それは人に対しての価値評価の基準にさえなる。考えてみればそれは恐ろしいことだ。このエッセイのなかで、「第三世界」に企業進出する会社の経営者が、現地の労働者に対し基礎的な訓練として「定刻通りに出勤するとか」の時間感覚のルーズさを矯正する必要を嘆く(ときにはそれを「文化人類学的」な興味として捉えることさえある)ことが紹介されているのだが、真木はそこに「時間化された身体」という近代の特質とのギャップを見てとっている。このエピソードからわたし自身の経験を思い出した。以前、大阪のある電気メーカーの工場を同じ近畿のある地域に建設する計画に建築設計の仕事で関わったことがある。それは地元の労働者のみを雇用するという条件のもとに地元議会で承認された。この工場勤務で得る報酬は、実際に地元の一般的なレベルからすると高く、都会の大企業という看板もあって、多くのひとがそれを切望したという。そこで生産される大型テレビのCMには往年の有名俳優が起用され、商品にはその新工場の地名が冠され盛んに宣伝された。だが実際には現地雇用のみでは望んでいた労働者の歩留まりが達成できず、メーカーはこっそりと大阪の本社工場の労働者を現地に送り生産ラインに就かせていた。後ほどこれが露呈して地元議会で大きな問題となった。これは00年代前半の近畿地方内での出来事であり、教育の地域格差が原因であるかのように話題にされてもいた。メーカーにとってみれば「田舎の労働者を教育する」ことが困難な結果に終わったという愚痴のひとつも出た話かもしれないが、人間性を奪うような工場ラインの価値観で「田舎は教育のレベルが低い」などといわれてはたまったもんじゃないなと思ったことを覚えている。しかもそれは都会から高速道路で1時間半走った山間部の話だという、たったそれだけの距離でうまれる格差だった。

 

 真木はメキシコのあるインディオの住む島のエピソードを紹介している。この島を観光資源として利用しようという意図から、橋をかけ、住民の生活を近代化しようと考えた行政に対して、住民は反対運動を展開した。この理由を「住民の近代文明への無知」「左翼勢力の煽動」と行政や知識人は捉えたが、実際はこれらの憶測は的を射ていなかったそうだ。島の住民たちの多くは以前から360キロ離れたメキシコ・シティーに出稼ぎに行っていて、男たちは清掃員や車洗い、女は女中その他の仕事につくことがほとんどだったという。彼ら彼女らにとっての現代都市は「台所や裏街のゴミの側から体感」したものであり、その経験が近代化が島に入り込んでくることを拒否する意識につながっていたという。近代化のうむ「裏側」を先に見ることになったひとたちが、それを容易に受け入れることがないのは当然なのではないか。そして、島に持ち込まれる「裏側」を、今度は誰が処理することになるのか。このエッセイが書かれてからすでに40年以上が経ち、島はいまどのような姿をしているのだろう。

 

近代主義者がインディオの生活合理化を計るとすれば、まっさきに削ぎ落とされるのはこの「余分の1人分」だろう。(同掲 159)

 

 「余分の1人分」とは何か。この島では死者たちが年に一度帰ってくる11月初頭の「死者の日」には、自分たちの死者のためにごちそうをつくり、墓場で死者たちとともに過ごすことが慣わしだ。その際にごちそうを死者の数よりひとり分余計につくる。誰からもまつられない行き場のない死者を、村に帰ってくる死者の誰かが誘い連れて帰ってくるのだという。(1) これもまた「関係」の話題であり、横にいる誰かのまなざしの共有なのかもしれない。見えない、知らない他者と同じ空間を一緒に過ごすという経験から学んだ原則が、余計につくられたごちそうを通して目の前にあらわれるのではないか。

 

 効率や生産性でひとを測る「近代化」を、それを基盤とした都市生活を送りながら個人として越えていくことは可能なのだろうか。旅で得たあたらしい「関係」が、「近代的な自我」とは違うわたしのあり方を見つけさせてくれたとして、それを持ち帰って本当に生きることはできるのか。わたしがなにかを考え行動するときに、「わたし」に捕らわれることで起こる不自由さをどうにかしたいと普段から感じているので、あらたな「わたし」を発見したいとは思う。だが同時にわたしはやはり「わたし」以外になれない思いもあり、葛藤がある。そして、あらたな考えに出逢うための資源のように誰かを扱ってしまうことになるのだとしたら、それはあまりに乱暴なのではないか。相手からなにかを得て、自分はなにを渡すことができるのだろう。誰からもなにも奪わない旅の難しさ。この点について真木は少々楽天的にも思えるのだ。この本の読書という旅から帰ってきて、さてどうしようかな、というのが正直なところ。特に次のような一文を読んだあとには。

 

人はだれでも自分の中に湖をもっていて、その深さとか色調とか涼しさとか透明感とかを、その人の生の最後の瞬間まで、加えたり変幻したりしている。人に話をするということは、その人の中の湖に話をすることであるように思う。

(「湖」191)

 

 出発点に戻る。「南端」はどこにあるのだろう。「南端」という語を眼にしたときに、習い性のようにあたまのなかに「北端」を想起し、実際には見下ろすことのできないひろいひろい空間のなかにその端々を置いて、自分のいまの居場所を中間のどこかに見定める。そういう作業を瞬時にしながら思い浮かべる「南端」ではない、ただの「南端」。見下ろされない「南端」。指し示すことの出来ない「南端」。そんな「南端」にわたしは出逢うことができるのだろうか。(2)

 

(1) 沖縄の旧盆でも同様に、祖霊が行き場のない霊を連れ帰ってくるので、余計にお供えを準備してもてなすそうだ。また、お盆は家で祖霊を迎えるため事前の掃除以外で墓所に行くことはないが、春の「シーミー(声明)」では墓の前に家族で集まりごちそうを一緒に食べて過ごす。

(2) 本書は『定本 真木悠介著作集』(全4巻)+『定本 見田宗介著作集』(全10巻)のなかの一冊であり、著者によると当初は「補巻」という扱いだったと「定本解題(219)」に書かれている。「『南端まで』という表題は(略)とくに意味はない。わたしの旅はいつも南へ、南へと向かっているように思う。それだけである。」とのこと。