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明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

まなざすのは誰か【評=中野行準】

『東北へのまなざし1930-1945』展

 

1 2つの含意

 『東北へのまなざし1930-1945』というタイトルには2つの含意がある。1つ目はまなざす主体が想定されているということで、これは本展覧会で提示される東北があくまでも、特定の主体によってまなざされた<東北>にすぎないということを示す。ある時代の一地域の総合的かつ中立的な記述を潔く断念する本展示は、展覧会の「ごあいさつ」の言葉によれば「複層的な「眼」をとおして、当時後進的な周縁とみなされてきた東北地方が、実はゆたかな文化の揺籃であり、そこに生きる人々の営為が現在と地続きであることを、あらためて検証するもの」だという(1)。しかし、特定の主体によってまなざされた<東北>だけが提示されてしまう以上、観覧者はそのまなざしをある程度は相対化しながら見る必要があるのであり、「複層的な「眼」」がどのようにして東北をまなざしたかということに意識的にならねばならない。そこまでストイックにならなくてもいいとは思うけれど、そうする方がこの展覧会をより楽しめるように私は思う。

 

 2つ目の含意は、東北という地名がすでに、ある権力関係を示しているということで、これは当然1つ目の含意とも関係する。本来方角だけをあらわす言葉がある地域を指し示すという事実は、東北が中心からまなざされる存在であった(ある)ことを意味している。東北という地名には日本という国の権力構造が如実にあらわれているのだ。たしかに、方角が地名になっている場所など世界中にいくらでもあるし、そのことにことさら政治的含意を持たせる必要はないのかもしれない。しかし、山内明美の適切な表現を借りれば、「東北という呼び名の向こう側にいつも「真ん中」が透けて見える」(2)のであるし、さらに「ごあいさつ」のなかで使われる「後進的な周縁」という表現からも、本展示が中心と周縁の関係を意識していることがわかる以上、やはり、ただの名前に過ぎないといって地名が孕む歴史性を無視することはできないだろう(私がこの展示を日本の鉄道システムの中心に位置する東京駅にある東京ステーションギャラリーで見たこともおおいに関係していると思う)。

 

 先に引いた「ごあいさつ」からも明らかなように、本展示、そして本展示の登場人物たちはある1つの逆転を目論んでいることがわかる。それは、豊かな中心—貧しい周縁という価値判断から、画一化し貧困化した都市文化—多様で豊かな地方文化という価値判断へと変化させるという目論見である。良心的にも見えるこうした目論見には、しかし、見落とされていることがあって、それは前者の価値判断が文化と経済両方に関わるものであるのに対し、後者の価値判断はもっぱら文化的側面にのみ特化した価値判断であるということだ。いかに文化的に優れた物や行事があったとしても、経済的な権力関係は変えることができない。ここに、先に挙げた目論見の限界があるのだが、それは頭の片隅にひとまず置いておいて、そもそもその逆転の前提となる構図自体を疑うことも可能だろう。本展示が潜在的に持っているまなざしの複雑な交錯、あるいはまなざしに孕まれたある捻れについて考えてみたい。

 

2 同行者

 冒頭で述べたように、本展はあくまでもまなざされた<東北>についての展示である。だから、まなざす主体によって、それは見せる顔を変える。<東北>がどんな表情を見せるか知るために、まずはまなざしの主体がどのような人物で、どうした経緯で東北をまなざすことになったのかに、こだわってみたい。展示概要に名前があがっている4人の人物(ブルーノ・タウト、柳宗悦、シャルロット・ペリアン、今和次郎)の訪問目的を端的に表現するならば、それは国の要請だ。タウトが嘱託として働いた仙台の工藝指導所は「外貨獲得の輸出工芸開発を主眼とした日本初の国立デザイン研究所」(3)であるし、柳が東北と本格的に関わるようになったのは、1928年に開催された御大礼記念国産振興博覧会に出品する物を探しに行くときからであった。ペリアンは1940年に商工省の招聘によって来日し、タウトと同じく工藝指導所で働くようになる。今和次郎は1933年に設立された積雪地方農村経済調査書(以降は雪調と記す)の一員として東北に調査に来ている。

 

 こうした国の要請は地震や冷害によって疲弊した東北を救済するための政策であったが、ここで忘れてはならないのは、こうした救済は建前であって、国の本音は労働者や兵士の安定した供給地として東北を維持したかった、ということだ。文化事業をうたいながら、その内実は利益の追求であるような政策は、昔からずっと行われていたのだ。そうした政策の一環として東北を訪れた彼ら彼女らの東北観もまた、<救済されるべき東北>というイメージの影響から完全に抜け出すことは困難であったろう。

 

 にも拘らず、本展示が興味深いのは、そうしたまなざしと同時に、それを相対化するようなまなざしも提示されている点であって、それを<同行者>のまなざしと呼んでもいいだろう。タウトにとっては勝平得之が、柳にとっては地元支援者の存在が、和次郎にとっては純三がそのようなまなざしの提供者だったと言える。ここで<同行者>というのは、直接に旅に同行したものだけを言うのではなく、中心からのまなざしを相対化するようなまなざしを持つ存在のことである。そして彼らが中心に向けるまなざしあるいは地元に向けるまなざしは既存の権力関係を不安定なものに変えうる。

 

 Ⅰ章の冒頭では、タウトが秋田を旅したときの様子が、関連する民具とともに大きなボードで提示されているのだが、面白いのはボードの上半分がタウトの手記からの引用で、下半分が、地元の版画家勝平得之の手記からの引用でできていることだ。つまり、ここでは、まなざされた秋田と同じ分量だけのまなざされたタウトが提示されているのである。タウトの東北へのまなざしと同時に勝平によるタウトが示されることで、タウトがまなざす主体としてのみ振る舞えたわけではなかったこと、むしろ、戦争体制へと突き進んでいく日本のなかの数少ない外国人として、まなざされる存在であったことがうかがえる。勝平の証言はタウトの存在がいかに特異だったかを示し、まなざされるタウトを浮き上がらせているわけである。タウトは「秋田の文化は建築と酒と食べものと版画である」と言ったと書かれているが、このような発言からも勝平の存在そして彼の作品の影響力の大きさがわかるだろう(実際タウトは勝平の版画を自著の口絵に使用している)。もちろんここでの主役はタウトであるには違いない。しかし勝平による秋田の冬景色の版画や、生命力に満ちた人形が展示されることで、タウト関連だけのものが展示される場合と比べて、展示から受ける印象が大きく異なったものになっていることは間違いない。

 

3 上京者

 Ⅴ章は「今和次郎・純三の東北考現学」と題され、今和次郎と五歳年下の弟純三による東京と青森での考現学の成果、「採集」成果がスケッチと写真で展示されている。和次郎に比べて知名度の低い純三の仕事をまとめて見るいい機会である。青森の雪景色と、外套や橇の仔細な描写は、純三が青森に長年暮らすことで得られた成果だと言えよう。興味深いのは和次郎との関係である。和次郎が、純三が画家を目指すことに反対していたことや、震災後、純三にとっては不本意な青森への帰郷を強く勧めたことなど、二人の間にはどこか不穏なものを感じる。図録に収録されている黒石いずみの論考には、和次郎が帰郷のさいに事故に逢い帰郷できなかったおりに、「どうやら自分は生涯故郷には帰らない運命のようだ」と語ったことが書かれており(4)、その言葉の真意は掴めないものの、私はこの言葉に棄郷者の悲しみと少しのナルシシズムを読み取る。それに対して純三は、多分再び上京することを夢見ながら、帰郷者として16年間青森で生活したのち、1939年に再び上京する。その5年後に病気でその短い生涯を終えてしまうまで東京で暮らした純三だが、彼の行動からは、東京へのこだわりが見て取れる。当然それは兄の存在と切り離すことのできないこだわりであっただろう。この兄弟の関係が、彼らのまなざしに相互に影響を与え合っていたことは間違いないように思える。

 

 彼らの関係を考えてみたのは、彼らの選んだ手法が、考現学という、個人のまなざしに忠実であろうとする手法だったからである。考現学といえば、現代の暮らしにまつわるモノを記録し(「採集」と呼ばれる)、分析することで人々の生活を調査する学問であるが、ここで忘れてはならないのは、「採集」行為が調査者の関心に大きく影響を受けるものであって、その根の部分には調査者自身の主観性があるということだ。こういうことを考えてみてから今兄弟の考現学の成果を見ることで、中心から周縁という一方向的な構図では捉えきれないようなものを見出せるのではないか。

 

 たとえば和次郎の有名な深川の調査には、地方から出てきた貧しい上京者たちの姿が描かれている。和次郎は東京という街が、地方から上京してきた者たちの街であることを認識し、彼ら彼女らの貧困問題にも関心を持っていたと思われるが、そのとき和次郎の頭の片隅には純三のことがあったに違いない。和次郎を単なる官僚の一人と見なし、中心—周縁という枠組みのなかで捉えるのは安易に過ぎる。同様に純三の青森考現学にしても、地元の画家が地元を描いたとだけ言うことはできない。彼の心中には、東京があり兄の影があったのだから、その「採集」にも彼独自のものがあったはずだ。それがなにかを見出すことは非常に難しいし、推測の域を出ないことも多いだろうが、だからといって彼らのまなざしが備えている機微を切り捨てることはできない。

 

 本論の趣旨からはズレるが、私が純三の青森考現学に見出した特徴は動物の存在で、彼のスケッチには馬や犬や鳥がいたるところに現れる。動物が生活に密着していたことは当然だが、彼のなかにひっかかるものがあったに違いない。「春サキの風俗」と題された採集資料の次のページには、「雪の上での動物の社会」と題された採集資料があり、そこでは犬と鵞鳥が食べ物を取り合っているところや、カラスが集まっているところがスケッチされている。「春サキの風俗」を見た直後に動物に遭遇したのだろうか、無関係に見えるこのつながりに純三という人のもつ特殊なまなざしの一面が現れているように思う。

 

 東北をまなざした人あるいは東北でまなざした人、彼らのまなざしの交錯は冒頭でいったような構図には簡単に収まらない複雑なものである。ここでは別に彼らを特権視したいのではない。そうではなくて、わかりやすい構図とその構図をわかりやすく逆転させようとする過程が見落としてしまうことに、できるだけ意識的であろうと思っただけである。本展示は多様で複雑なまなざしの交錯を多分に含んでいるのだから。

 

 最も印象にのこった展示を最後に紹介しておこう。それはこけしだ。Ⅲ章「郷土玩具の王国」は、旅行ブームに端を発する郷土玩具ブームを紹介するパートなのだが、観覧者はそのパートに入った瞬間、壁一面に並んだ、こちらをむいているこけしたちに出くわす。様々な系統ごとに並べられたこけしたち。ニヤついているように見えるのもあれば、冷淡なまなざしでこちらを向いているものもある。背の高さもまちまちで、木肌の色もいろいろだ。私はそれぞれのこけしが持つ強烈な個性とまなざしの強さに圧倒された。それらはみな同じ方向、観客の方を向くように並べられていたけれど、それぞれのまなざしが捉えているものはひとつひとつ異なっているように、私には思えた。

 

 

(1)展覧会「ごあいさつ」『東北へのまなざし1930-1945』図録4ページ

(2)山内明美『こども東北学』(イースト・プレス、2011年)

(3)沢良子「タウトの旅断章「人生も何もかも、すべては旅である」」図録202ページ

(4)黒石いずみ「今和次郎の東北調査と建築デザイン:もうひとつのモダニティ」図録212ページ