Coyote Reading

明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

越川芳明さんへの感謝【文=管啓次郎】

【2023年3月4日、越川芳明さんの最終講義「文学から遠く離れて」につづいて、明治大学文学部英米文学専攻主催の「退職記念祝賀会」が開催されました。以下はぼくの祝辞です。】

 

 越川さん、本日はおめでとうございます。これからはいっそう自由に、旅もゴルフも新たな読書も楽しまれるのではないかと思います。それはわれわれにとっても大変によろこばしいことで、これからも変わらぬ刺激を越川さんから受けつつ、自分自身の生き方や考え方の軌道修正を図ることができるのではないかと思っています。

 

 ぼくはちょうど20世紀の最後の年、2000年に明治に拾っていただき、これまでなんとかやってきました。ぼくのような何の役にも立たない人間をずっと雇ってくれているだけで、明治大学の恐ろしいほどの自由と寛容の精神が証明されるようなものですが、初めは偶然に得たこの職場が、とんでもない可能性と驚くべき人材にみちた大学であるということも、次第にわかってきました。ぼくは理工学部、生田の里山に展開するキャンパスにおりますので、みなさまご承知のとおり、他の学部の方々には年に数えるほどしかお会いする機会がありません。そんな日々でもすれ違えばいつも温かい笑顔で声をかけてくださる先輩教員に、たとえばここにいらっしゃる土屋恵一郎さん、そして越川さんがいて、つねに励まされ、また勇気を得てきました。

 

 サッカー部長としての越川さんについては、すでに話題に出ましたので、ぼくからは越川さんの文学者としての側面、彼が日本のアメリカ文学者の中でいかに特異な、きわめて重要な存在であるかについて、少しだけ考えを申し上げておきたいと思います。

 

 20世紀後半の日本はアメリカの全面的な影響下にありました。高度成長期の日本人の理想は、端的にいってアメリカ人のような生活をしたいということでした。1960年代に育つといやでもそう思うようになります。メディアによって、広告によって、そのように方向づけられてゆく。改めていうまでもなく、大衆化した大学教育における英語の世界も、そんなアメリカ志向によって大きく染め上げられていたと思います。言語として、文化としてのアメリカが、その圧倒的な経済力・政治力とともに子供たちを魅了していた。しかしその一方でベトナム戦争があり、アメリカにあこがれつつも、魅力を感じること自体を自己批判しないわけにもゆかない。そんな矛盾した感情をもつ人々は、多かったのではないでしょうか。

 

 越川さんの課題は、ひとことでいえば、アメリカの外を探るということでした。アメリカ文学の王道を追求するという道もあったはずですが、ぼくが知り合った今世紀のはじめごろには、すでにそこからの逸脱を図っていらっしゃいました。モロッコでのポール・ボウルズとの出会いも大きかったのかもしれませんが、ご自分はアメリカ合衆国とメキシコとの国境地帯、言語と文化の境界地帯を徹底的に旅するという方向にむかったわけです。その旅の成果として生まれたのが『トウガラシのちいさな旅』(白水社、2006)および『ギターを抱いた渡り鳥』(思潮社、2007)という、ロベルト・コッシー作の2冊の愛すべきボーダー文化論・文学論だったことを、沢田としきさんのすばらしく本質をついた装画とともに、なつかしく思い出します。

 

 旅には、あるところにゆけばさらにその先へ、さらに遠くへと人を誘うものがあるようです。この先には何があるのか、もっと知りたい、もっと行ってみよう。そんな衝動に忠実に、その後の越川さんはキューバとスペイン語、そしてキューバの中のアフリカ系文化へとずんずんと体ごと歩み入るという経験をくりかえし、やがてキューバのアフリカ系宗教サンテリアの司祭「ババラウォ」の資格を取得し、「イファ占い」によって人々に人生の指針を与えるようになったことは、みなさんご存知のとおりです。アメリカのポストモダン文学の研究者として出発した人が、他のどんな文学研究者にもなしえなかった、文学と人々の生きた現実をつなぐ、ここまでの境地に達した。まさに驚くべき、そしてうれしくなる、みごとな生き方だと思います。

 

 越川さんがかつて語ったとおり、「アメリカ文学を選んだのではなく選ばされていたのだ」ということに気づいたとき、まったく新たな探求の対象が見えてきたわけです。以来、うまずたゆまずご自分の探求をつづけ、その成果が昨年には大著『カリブ海の黒い神々』(作品社、2022)へと結実しました。ひとりの文人の生き方として、研究と旅と文章の執筆がもっとも高いレベルで一致した姿を、彼の後を追うわれわれに見せてくださいました。それも越川さんのオリチャ(守護神)であるエレグアの導きなのでしょうか。これからもますますお元気で、よい旅と、よい学びを続けられますよう、心からお祈りいたします。