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明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

外側と内側から見る潜伏キリシタン【評=中野行準】

大橋幸泰『潜伏キリシタン——江戸時代の禁教政策と民衆』(講談社学術文庫、2019)

 

 2018年に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコの世界遺産に登録されたことによって、潜伏キリシタンに対する世間の関心は高まった。しかし、関心が高まると同時に、潜伏キリシタンの単純なイメージが流布する。禁教政策のもとで、厳しい圧力にも負けることなく信仰を貫き続けた人々、というのがそれである。このような認識が完全に間違っているとは言えないが、やはり安易だろう。16世紀の終わりから19世紀の半ばまで、およそ250年間続いた禁教令自体が一貫したものではなかったのだから、潜伏キリシタンたちもまた政策の厳しさによって信仰や潜伏の形態を柔軟に変化させていたはずだ。

 

 そのように多様であるはずの潜伏キリシタンをどのように語ることができるだろうか。本書は潜伏キリシタンを外側と内側の二方向から考察することで、安易なイメージで語られがちな潜伏キリシタンの実態を捉えようとする試みである。

 

 前半では、潜伏キリシタンについての史料やその時代に出版された書物を精査し、潜伏キリシタンたちの呼称の変遷をたどることで、彼ら彼女らが外側からどのように認識されていたかを考察する。ここでその変遷を簡単に見てみよう。

 

 1630年代の前半までキリシタンたちは「伴天連門徒」という名前で表記されることが多かった。ポルトガル語で宣教師を意味するpadreに由来する「伴天連」、そして浄土真宗の信徒に使われることが多い「門徒」という言葉の組み合わせからなる「伴天連門徒」という言葉が使われていたことの背景には、この時期の禁教政策がある。秀吉の政策を引き継ぐこの時期の禁教政策では、弾圧の対象はもっぱらキリシタンの指導者だった。つまり、「伴天連門徒」という名前に如実に示されているように、幕府は信徒たちを「伴天連」のもとに集まる「門徒」だと認識しており、そこに一向一揆の参加者たちに似た性質のものを見ていたのだ。

 

 この呼称が変化していくきっかけになったのが、1637年から1638年にかけての島原天草一揆だ。これを機に「伴天連門徒」という呼称の頻度は減っていき、「切支丹」という呼称が多くなっていく。つまり弾圧の対象が指導者レベルから、民衆レベルへと移っていったのだ(「伴天連」たちの数が激減したこともこれに関連する)。この時期は宗門改の制度が全国的に整い、江戸幕府の宗門改役だった井上政重による厳しい弾圧が行われていた時期でもあった。

 

 そのような時代を経てキリシタンは表面的には存在しないことになる。しかしよく知られているように、キリシタンたちは幕末まで潜伏しながら存在していた。著者が注目するのは、その時代には、彼ら彼女らが「異宗」「異法」の信仰者と呼ばれていたことだ。禁教政策によってキリシタンたちの表立った活動が大きく制限された結果、「切支丹」のイメージはその実態から大きくかけ離れていく。そして、潜伏キリシタンたちは「異宗」「異法」と呼ばれる異端的宗教活動の枠組みで認識されていくことになるのだ。名は体を表すというが、潜伏キリシタンに対してそれはあてはまらない。むしろ彼ら彼女らにあてがわれた様々な名前は同時代の人々や弾圧者たちが認識した一方的なイメージとしての<キリシタン>を表しているのだ。

 

 本書の後半では、そうしたイメージではなく、実際の潜伏キリシタンに迫る。そこで著者が注目するのは潜伏キリシタンたちの持つ複数の属性である。潜伏キリシタンたちは信者たちのつくる信仰共同体(コンフラリア)の一員であっただけでなく、村社会の一員でもあった。2つの共同体は重なっていたわけではなく、多くの村では信徒と非信徒が共存していた。ここに長期間の潜伏を可能にしていた仕組みがあると著者は言う。

 

 1805年に肥後国天草郡で起こった潜伏キリシタンが一斉に検挙された事件(通称「天草崩れ」)での今富村の事例を取り上げてみよう。複数のキリシタンが潜伏していることが疑われたこの村に島原藩は「異法」の信仰道具を提出するように求めた。それに対して村民たちは、道具の提出は構わないが、その道具の所有者が誰だかわからないようにしてほしいと訴えたという。つまり信徒と非信徒の区別が明確化されないように求めたのだ。さらに、処罰の取り消しを求める請願書は村の統一見解として出されていた。その理由を著者はこう説明する。

 

 非信徒を含めた村社会の結束は親族や隣人への情愛に由来するものである、というのはもちろんであろう。しかし、そればかりではなく、村社会全体の利益を考えれば、信徒と非信徒を明確化するというのは決して有益ではない。処罰者を出さないために、生活共同体としての村社会が結束して村社会の秩序を乱す藩の行為に抵抗したと考えるべきではないか。(163)

 

 もちろんこの例だけをもって、他の村の非信徒たちもまた同じ村の信徒たちに協力的であったということはできない。しかし、潜伏キリシタンたちが信仰共同体の一員であっただけでなく、村という生活共同体の一員でもあったこと、そしてさまざまな制約と援助のなかでその信仰が保たれてきたということは確実だろう。現代に生きるわれわれもまた複数の属性を持ちながら生きている。会社や家庭などに限らず、人は様々な共同体の一員でありうる。しかし我々は歴史上の人々に対して、こうした明らかな事実をしばしば見落とし、その人の最も重要な(と我々が考える)属性だけを見てしまう。安易に物語化されたイメージが流布してしまうことの原因もそこにあるのだろう。

 

 ここで紹介することはできなかったが、本書には他にも多くの事例が、同時代の禁教政策とともに取り上げられている。当然、残された史料は事実の集まりに過ぎない。当時の人々の認識や生活の実態がおぼろげながらも掴めるようになるのは、それらの複数の事実が解釈されるときだ。本書においても解釈は常に行われるわけだが、そこにはアクロバティックで思わず膝を打つような解釈は出てこない。本書の解釈はあくまで慎重だ。それは多分著者が、歴史が安易に物語化されてしまうことに極めて敏感だからなのだと思う。「学術文庫版へのあとがき」では、キリシタン関連遺跡が世界遺産に登録されたときに著者がうけたテレビ番組のインタビューの話が書かれている。

 

 そのインタビューのなかで大浦天主堂の意義について、潜伏キリシタン「発見」の舞台になったと私は答えたが、こうも続けた。それは悲劇の始まりでもあった、と。信徒は諸藩に配流されてひどい仕打ちを受けただけでなく、明治期以降、彼らの間が分裂状態になって厳しい対立が起こるようになったことも話した。しかし、この「悲劇の始まり」以下の発言は番組に採用されなかった。番組の構成上、悲劇の話は入りにくかったことは理解できるが、潜伏キリシタンのストーリーが史実と乖離する可能性を感じる。(253)

 

 著者も危惧するように、安易な物語化はイメージと実態の乖離を生み出す。うまく物語に収まらないことを排除しては、ストーリーにはなっても史実にはならない。排除された部分こそが重要な場合もある。安易な物語化に屈することなく、外側と内側から、慎重に歴史を見ていく態度こそは、隠したいことを隠し、美しい物語を提示してくる権力者たちがのさばる現代に必要な態度だろう。