Coyote Reading

明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

立ち話6 山本洋平さん(環境文学)

 

山本さんは環境文学の研究者ですね。「自然活動」というか(笑)、山に歩きにいくとか海に泳ぎにいくとか、そんなこともお好きなんですか。

 

好きですね。いまは特にシュノーケリングをやってます。海亀が、いろんなところのアバターに使っているくらい好きで。最近、沖縄であったじゃないですか。海亀が漁師さんに、っていう。あれには複雑な思いがある、というか、何より悲しかったです。

 

久米島でしたね。どういう事件でしたっけ。

 

30頭くらいの海亀が刺されているのが見つかって。地元の漁師さんの網に大量に亀がひっかかってしまったのですが、漁師さんにとっては駆除したい害獣なわけですよね。これは海亀漁ともまた意味がちがう。立場によって亀がまったくちがって見えるんだなと。

 

そうですね。漁業とはまさに人間世界と自然のインターフェースにある産業で、自分で魚をとることもできないぼくなんかは大きな恩恵をこうむっているわけですが、それでもそこに問題があると思わないわけにはいかない。たとえば商品になる魚の陰で、どれだけの魚が捨てられているか、とか。

 

なぜか魚って、ふつうには大量殺傷の対象というふうには見えないんですよね。でもいわしなんかを見ても、ものすごく大量に、ものすごい数を人間が殺し、消費している。あの数はどういうものなのか、と思います。

 

第一次産業って、漁業でも林業でも、ある意味、ヒトの暴力の最前線ですよね。

 

そうですね。ところが漁師という存在や漁業という活動のことを、ある種神話的に見てしまうところがどうしてもあるので、ここはよく考えなくてはいけない。

 

もう10年ほど前の作品ですが、ハーヴァード大学感覚民族誌学研究所の『リヴァイアサン』というドキュメンタリー映画、見ました? 説明的ナレーションはいっさいなく、漁船で行われていることをただたんたんと撮影していく。ヒトという種がなす暴力の生の姿を見せつけられる。すさまじい映画です。

 

それはぜひ見たいですね。さっき「自然」と訊かれて日常的な感覚でパッと思いついたのは海亀だったんですけれど、研究としては「自然」natureという単語のことを考えています。いわゆるnatural thingsみたいな感じで樹木だったり動物だったりを表す、その手前のnatureのことを19世紀前半くらいにしぼって考えています。Human natureといったりもしますが、どうもその段階では自然物、動植物をしめしてはいなさそうなので、そこからnature writing になるその瞬間を、研究的には探っているところですね。

 

ところで窓の外に見えているこの森、すばらしいですよね。明治大学生田キャンパスの土地がかつて陸軍登戸研究所だったころからある、樹齢100年を超えるヒマラヤシーダーの林ですが、来年の5月にはすべて伐採されます。どう思われますか。

 

悲しいですね。自分がどれだけ癒されてきたかと思うと。人間てほんとに愚かで、失われてみるまではその存在の大きさに気づかない。この林についても、何かもっとできなかったものかなという後悔があります。この音とか。これもなくなるわけですよね。

 

目だけの体験ではなく、耳だけでもなく、この木々がなくなるとその不在に、もっと全面的に影響をうけることになるでしょうね。

 

そうですね。木々の不在は、私たちの感性の喪失へと確実につながっている気がする。そういう確信があります。まさしく目下取り組んでいるクリティカル・プラント・スタディーズにも深くかかわる問題ですが、私たちは(動物よりもはるかに)植物の存在を軽視する傾向がある。まるで声や意志がないかのように扱うわけです。問題は、私たちに樹木の声をきく感性が奪われてしまったこと。かつては西洋にも東洋にも見られた樹木崇拝、要するにアニミズム的な感性を軽視すると、とんでもないことになる直感があります。この直感を学術的かつ文学的に記述する表現を模索したいですね。