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明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

6歳児が体験した夏、広島【評=管啓次郎】

中沢啓治『わたしの遺書』(朝日学生新聞社、2012)

 

爆心地からわずか1.3キロのところで6歳児が被爆した。倒れたコンクリート塀と街路樹の狭い隙間に守られて潰されずにすんだ。父、姉、弟が死に、やはり奇跡的に無傷だった臨月の母はショックで路上で妹を出産する。少年がたった今まで話していた近所のおばさんは黒焦げ。たくさんの死体。ガラスの破片がおびただしく刺さり皮膚がむけてぶらさがったまま歩く人々。その後の惨状を含めて、少年はすべてを見て、記憶した。それは何という生涯だろう。どんな光景が、音が、匂いが、なんど甦ったことだろう。想像を絶するが、想像しないわけにはいかないし、想像しなくてはならない。想像しうるすべてをはるかに超えた記憶を現実のものとして、彼は成長し苦闘し漫画家となり、母の死を契機に原爆体験を描くことを決意した。やがて『はだしのゲン』へと結実する中沢啓治の漫画は人類の宝だ。核兵器には全面禁止以外の道なし。核武装の狂気を断じて容認してはならない。

 

青べか世界【評=中野行準】

山本周五郎『青べか物語』(新潮文庫、1964)

 

 いつのまにか青べかの世界に迷い込んでしまっていた。そこにはタバコを1本せびっては、箱ごとかすめとっていく芳爺がいて、お金が貯まると女性に貢いでしまう留さんがいて、自分を兵曹長だと思い込み、会う人ごとに、「人はなんによって生くるか」と問いかけるささやんがいた。獺や鼬は人をだまくらかし、おどろおどろしい白い人たちが工場で働いていた。

 

 『青べか物語』は、ある1つの世界をものがたっている。あくまでも言葉の連なりにすぎない小説がこれほどの密度の世界を創りあげてしまうということに、驚き、感動しながら読み進めた。たとえば冒頭近い部分にあるこんな文章が私を惹きつける。

 

 この町ではときたま、太陽が二つ、東と西の地平線上にあらわれることがある。そういうときはすぐにそっぽを向かなければ危ない。おかしなことがあるものだ、などと云って二つの太陽を見ると「うみどんぼ野郎」になってしまう。そうしてそのときにはすぐ脇のほうで、獺か鼬の笑っている声が聞えるということである。(11)

 

 日の出と日の入りの太陽、脇には獺と鼬の笑う声。喚起力豊かなイメージが読者を物語のなかに誘う。「うみどんぼ」は海蜻蛉がなまったものだろう。船に乗る人を罵るための言葉らしい。「うみとんぼ」より「うみどんぼ」のほうがしっくりくるように思われるのは、「とん」という軽い音より「どん」という重く勢いある音のほうが青べかの世界にふさわしいからかもしれない。

 

 どん、どん、どん、どんというBGMが実際にきこえてくるように思えたのは、石灰工場で働く「白い人たち」が登場する場面。彼ら彼女らがそう呼ばれているのは、男も女もみな裸で、身体中が石灰粉まみれになっているからで、粉が毛根に付着し固まるのを避けるために体毛はすべて剃り落としてある。「人間というよりも、なにかえたいの知れないけものというようにさえみえた」(114)と言われる彼ら彼女らの登場場面は読んでいて鳥肌がたった。映像作品にしたらどうなるだろうかと妄想してしまう。

 

 ところで『青べか物語』の舞台には実際のモデルがあって、作家が一時期住んでいた千葉県浦安がそれだ。そのころの周五郎は、作家としてデビューはしていたものの、その活動は軌道に乗っていなかったし、同時期に失恋も経験していた。経済的にも精神的にも苦しいなかで、漁村のひとたちとのふれあいが周五郎の傷心を徐々に慰めていったのかもしれない。

 

 もちろん浦安になじみがない読者でもこの小説を十分に楽しめる。浦安は浦粕として書かれることで、どこでもない場所=どこでもある場所へと変貌しているのだから。そこで営まれている生活は、多くの読者にとってどこか懐かしいものであるだろう。

 

 最後に私がもっとも心を打たれた挿話を紹介しておきたい。話は語り手が子どもたちから鮒を買ったことにはじまる。味をしめた子どもたちは、鮒を釣っては売りにやってくる。語り手もはじめのうちは買ってやっていたが、お金が足りなくなり、ついに音を上げる。断られた子どもたちはどうしようかと思いあぐねたすえに鮒を贈与することに決める。長くなるが素晴らしい箇所なのですべて引用する。

 

「みんな」と長が急に云った、「それじゃあこれ先生にくんか」
 くんかとは、贈呈しようか、というほどの意味である。途方にくれ、落胆していた少年たちの顔に突然、生気がよみがえった。それは囚われの縄を解かれたような、妄執がおちたような、その他もろもろの羈絆を脱したような、すがすがしく濁りのない顔に返った。
「うん、くんべ」と少年の一人が云った、「なせ、これ先生にくんべや」
「くんべ、くんべ」
「先生、これ先生にくんよ」とかんぷりが云った、「みんな、勝手へいってあけんべや」
 私は自分の大きな過誤を恥じた。
 少年たちに狡猾と貪欲な気持を起こさせたのは私の責任である。初めに私は「その鮒をくれ」と云えばよかったのだ。売ってくれと云ったために、かれらは狡猾と貪欲にとりつかれた。私のさみしいふところを搾取しながら、かれらも幸福ではなかった。(161)

 

 贈呈という考えを思いついた子どもたちの顔に生気がよみがえる。子どもたちは金銭への尽きることなき欲望からひととき解放されたのだ。鮒は商品から贈り物に、搾取は贈与に変わる。そしてなにより子どもたちの顔が変わる。「くんべ、くんべ」を忘れてはいけない。

 

越川芳明さんへの感謝【文=管啓次郎】

【2023年3月4日、越川芳明さんの最終講義「文学から遠く離れて」につづいて、明治大学文学部英米文学専攻主催の「退職記念祝賀会」が開催されました。以下はぼくの祝辞です。】

 

 越川さん、本日はおめでとうございます。これからはいっそう自由に、旅もゴルフも新たな読書も楽しまれるのではないかと思います。それはわれわれにとっても大変によろこばしいことで、これからも変わらぬ刺激を越川さんから受けつつ、自分自身の生き方や考え方の軌道修正を図ることができるのではないかと思っています。

 

 ぼくはちょうど20世紀の最後の年、2000年に明治に拾っていただき、これまでなんとかやってきました。ぼくのような何の役にも立たない人間をずっと雇ってくれているだけで、明治大学の恐ろしいほどの自由と寛容の精神が証明されるようなものですが、初めは偶然に得たこの職場が、とんでもない可能性と驚くべき人材にみちた大学であるということも、次第にわかってきました。ぼくは理工学部、生田の里山に展開するキャンパスにおりますので、みなさまご承知のとおり、他の学部の方々には年に数えるほどしかお会いする機会がありません。そんな日々でもすれ違えばいつも温かい笑顔で声をかけてくださる先輩教員に、たとえばここにいらっしゃる土屋恵一郎さん、そして越川さんがいて、つねに励まされ、また勇気を得てきました。

 

 サッカー部長としての越川さんについては、すでに話題に出ましたので、ぼくからは越川さんの文学者としての側面、彼が日本のアメリカ文学者の中でいかに特異な、きわめて重要な存在であるかについて、少しだけ考えを申し上げておきたいと思います。

 

 20世紀後半の日本はアメリカの全面的な影響下にありました。高度成長期の日本人の理想は、端的にいってアメリカ人のような生活をしたいということでした。1960年代に育つといやでもそう思うようになります。メディアによって、広告によって、そのように方向づけられてゆく。改めていうまでもなく、大衆化した大学教育における英語の世界も、そんなアメリカ志向によって大きく染め上げられていたと思います。言語として、文化としてのアメリカが、その圧倒的な経済力・政治力とともに子供たちを魅了していた。しかしその一方でベトナム戦争があり、アメリカにあこがれつつも、魅力を感じること自体を自己批判しないわけにもゆかない。そんな矛盾した感情をもつ人々は、多かったのではないでしょうか。

 

 越川さんの課題は、ひとことでいえば、アメリカの外を探るということでした。アメリカ文学の王道を追求するという道もあったはずですが、ぼくが知り合った今世紀のはじめごろには、すでにそこからの逸脱を図っていらっしゃいました。モロッコでのポール・ボウルズとの出会いも大きかったのかもしれませんが、ご自分はアメリカ合衆国とメキシコとの国境地帯、言語と文化の境界地帯を徹底的に旅するという方向にむかったわけです。その旅の成果として生まれたのが『トウガラシのちいさな旅』(白水社、2006)および『ギターを抱いた渡り鳥』(思潮社、2007)という、ロベルト・コッシー作の2冊の愛すべきボーダー文化論・文学論だったことを、沢田としきさんのすばらしく本質をついた装画とともに、なつかしく思い出します。

 

 旅には、あるところにゆけばさらにその先へ、さらに遠くへと人を誘うものがあるようです。この先には何があるのか、もっと知りたい、もっと行ってみよう。そんな衝動に忠実に、その後の越川さんはキューバとスペイン語、そしてキューバの中のアフリカ系文化へとずんずんと体ごと歩み入るという経験をくりかえし、やがてキューバのアフリカ系宗教サンテリアの司祭「ババラウォ」の資格を取得し、「イファ占い」によって人々に人生の指針を与えるようになったことは、みなさんご存知のとおりです。アメリカのポストモダン文学の研究者として出発した人が、他のどんな文学研究者にもなしえなかった、文学と人々の生きた現実をつなぐ、ここまでの境地に達した。まさに驚くべき、そしてうれしくなる、みごとな生き方だと思います。

 

 越川さんがかつて語ったとおり、「アメリカ文学を選んだのではなく選ばされていたのだ」ということに気づいたとき、まったく新たな探求の対象が見えてきたわけです。以来、うまずたゆまずご自分の探求をつづけ、その成果が昨年には大著『カリブ海の黒い神々』(作品社、2022)へと結実しました。ひとりの文人の生き方として、研究と旅と文章の執筆がもっとも高いレベルで一致した姿を、彼の後を追うわれわれに見せてくださいました。それも越川さんのオリチャ(守護神)であるエレグアの導きなのでしょうか。これからもますますお元気で、よい旅と、よい学びを続けられますよう、心からお祈りいたします。

 

 

辺境のキュクロプス【評=林真】

丹下和彦『ギリシア悲劇の諸相』(未知谷、2023)

 

 書名だけ見て、難解な研究書だと身構えないでほしい。本書の内容はいたって簡潔だ。ギリシア悲劇(および後述するサテュロス劇)から数篇が選ばれ、それぞれについての概要が語られ、解説が加えられる。同じ著者の『ギリシア悲劇入門』(未知谷、2021)に続く「『ギリシア悲劇勉強会』(劇団『清流劇場』主宰)からの報告」(141)とのことで、本書ではアイスキュロスから1篇、エウリピデスから7篇の作品が取り上げられている。

 

 とにかく要点が絞られているのが良い。一文一文を追っていけば、その悲劇の輪郭をなんとなく摑むことができる。読者が混乱しそうな部分については繰り返し言及される。登場人物や神の名前を混乱しがちな私にはありがたい配慮だ。

 

 要点が絞られているといっても、あらすじや説明が淡々と並べられているということではない。著者の記述は工夫に富んでいる。エウリピデス『タウロイ人の地のイピゲネイア』のクライマックスについての記述を引用してみよう。

 

 万事休す。脱出寸前に危機が迫ります。観客席の各所から悲鳴が上がります。困ったときの神頼み――この作者の作品で「デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)という手法を経験済みの客が(たとえばすでに『ヒッポリュトス』(前428年上演)で使われています)あちこちで声を上げます、「神さまを出せ!」と。これまた観客に劇への参加を促すにくい仕掛けです、シナリオも演出も。劇場騒然。声に応えて舞台上方に女神が登場します。アテナ女神です。歓声はひとしきりやみません。(33-34)

 

まるで著者自身が古代の劇場で実際に上演を見てきたかのようだ。こうした書きかたを実証性に欠けると見る向きもあるかもしれない。しかし当時の観客の反応や悲劇詩人の意図を想像することで、その悲劇の輪郭を摑むことができる場合もあるだろう。本書はその想像の糸口を読者に提供するものなのだ。

 

 特に興味深かったのは、エウリピデスの『キュクロプス』だ。これは悲劇ではなく、競演会で悲劇とともに上演されたサテュロス劇というものらしい。ホメロス『オデュッセイア』の第9歌と同じエピソードを扱っているとのこと。予期せずシケリア島にたどりついたオデュッセウスは、一つ目の巨人キュクロプスに仲間を殺される。そこでオデュッセウスは復讐としてキュクロプスの目を潰す。だが著者は、その目潰しの動機に仲間のための復讐だけを見ない。トロイア戦争の開戦理由を揶揄したキュクロプスの言葉の「封殺」をもそこに見るのだ。著者はキュクロプスについて次のように書く。

 

 一つ目のキュクロプスは双眼のオデュッセウスとは違うところを見ています。オデュッセウスが見ていないものを見ています。盲目の予言者テイレシアス(ソポクレスの『オイディプス王』に出てきます)が晴眼のオイディプスに「あなたは見えているのに見ていない、わたしは見えていないが見ている」と言ったのと同じです。ギリシア世界で双眼の者の誰もが見ず、気付かず、口に出さなかったことを、単眼のキュクロプスのみが見、気付き、口に出したのです(いや、もう一人います、エウリピデスの『オレステス』521~522でスパルタ王テュンダレオスがトロイア帰りのメネラオスに同じような嫌味を浴びせています)。(50)

 

キュクロプスは無法者ないしは逸脱者の立場から法治社会を揶揄批判し、「聖戦」トロイア戦争の虚しさを嗤いました。辺境から中央を撃ったのです。(82)

 

「辺境から中央を撃った」。こう聞くと断然、キュクロプスのことが気になってくる。ディオニュソス劇場で観劇していた古代の人々は、キュクロプスの言葉に何を思ったのだろうか。それを想像しながら、古代ギリシアの物語を読んでみたいと思わされた。

 

獣脂にすっぽり被われて【評=管啓次郎】

ホメロス『イリアス』(松平千秋訳、岩波文庫、1992)

 

 ホメロスの叙事詩『イリアス』を初めて読んで、びっくりすることばかりだった。とにかく血腥い。殺し合いの連続。古代ギリシャでは神々は死なず人間は死ぬのが大原則だが、たちの悪い神々は人間に殺し合いをさせてはよろこんでいるようなところがある。主人公はアキレウス(そう、アキレス腱の名のもとになった人)。ここでは酸鼻をきわめる戦闘場面ではなく、彼の臣下にして親友パトロクロスの葬儀の場面をとりあげようか。すでに物語の大詰めに近い。巨大な焼場を作り、薪を積み上げたいちばん上に遺体を置いて、火葬の準備をする。この描写が強烈だ。以下、引用。

 

多数の肥えた羊と、また角曲がり脚をくねらす牛とを、薪の山の前で皮を剝いで支度を調える。剛毅のアキレウスは、それらすべての獣から脂身を取り出して、遺体の頭から足までをすっぽりと被い、その周りに皮を剝いだ獣の死骸を積み上げる。ついで蜂蜜と油とを容れた把手の二つある甕を、担架にもたれさせてその上に載せる。さらに首を高くもたげる馬四頭を、大声で呻きながら手早く投げ込む。パトロクロスには、食卓の脇に置いて養っていた九頭の飼犬がいたが、その二頭の頭を裂いて薪の中へ投げ入れ、さらには勇猛トロイエ人の十二人の優れた息子たちを青銅の刃で切ってその息の根を止める。まことに無残な企みであったが、これらをみな舐め尽くせと、鉄の如く弛むことなき火を放って火勢を煽り立てる。(下巻 342−343)

 

 捧げ物として(どんな神に対する?)動物が供犠にかけられるが、実用面(?)からいうと獣脂は人間の遺体をよく焼くための燃料にでもなるのだろうか。蜂蜜と油(何油だろう、オリーヴ?)は貴重なものであると同時に何かの意味(たとえば浄化?)を帯びているのだろうがよくわからない。馬は、いわば、戦場の友として牛や羊とはちがった位相にあるのかもしれないが、それと家庭の友(?)である犬も冥土の道連れにされる。そして敵方の捕虜も、はたして何の添え物だというのか、十二人が一挙に殺害され焼かれる。武将の命に比べて、兵士の命はとことん軽い。


 まったく読んでいて胸が悪くなるような話だが、元来の形態、つまりなんらかの語り部が(盲目の語り部が)このような物語を吟じていた時代にあっては、その語りの調子により人々はすっかり幻惑され、これはみごとな葬儀だと感嘆したのだろうか。残虐きわまりない戦闘に付随するものとして、ギリシャ神話では遺体を奪還し、しかるべき作法に則って故地に葬ることの必要が強調されるようだ。荼毘に付す前の移送にあたっては、戦友たちが自分の髪を切り取り、棺の中に投げ入れて、遺骸をすっぽりと蔽うという記述もある。髪もまたそれぞれの生者の小さな供犠か。


 ともあれ、平易で達意の訳文によりこの古典中の古典を日本語で読んで楽しむことができるのはよろこばしい。巻末には伝ヘロドトス作「ホメロス伝」なる一文が付されていて、これもじつに興味深い。ホメロスはもともと盲目の詩人ホメロスだったわけではなく、もとはメレシゲネスと呼ばれていた。塾教師だったが詩人になりたいと思っていた。そこに船旅を勧めてくれる人がいて、各地の風物を見学し、質問により知識を蓄えた。やがて病を得て失明したものの、キュメという町で「年寄りたちが集って歓談する場所に坐り込んでは、自作の詩を聴かせたり、彼等と会話を交わして楽しませたりするうちに、一同はその芸に感服して彼をひいきにするようになった」という。


 そのあとがいい。自分の語りに耳を傾けてくれる人が増えて、メレシゲネスはこう提言したのだ。「もし自分を町の公費で養ってくれる積りがあるなら、彼等の町の名を大いに挙げてやろう」と。地方自治体のお抱え広報詩人! 残念ながらこの提言はキュメの町に否決され、詩人の流浪はつづく。このころ、名が変わった。「ホメロス」とはどうやら「盲人」を意味したらしい。そしてこの名がやがて不滅のものとなったのは、われわれがいまその名を知っていることが端的に証明している。

 

言葉に操られて【評=中野行準】

大竹伸朗『見えない音、聴こえない絵』(ちくま文庫、2022)

 

 大竹伸朗の言葉はおもしろい。ありふれた言い回しでは語り難いなにかを、あるときは造語によって、あるときは思いもよらない語の連結によって表現する。目次をさっと眺めてみるだけでもそのことがわかるだろう。「絵の根っこ」「スケッチブックの無意識」「蹴景」「トースト絵画」「高野山のミシン針」「消動と衝去」、興味を惹かれる言葉が並んでいて、どれから読み始めようかと悩んでしまう。

 

 これらの独特な題名の文章で語られる内容は、作品制作時の葛藤や、子供時代の記憶、イギリス留学時代のことなど、幅広い。さまざまな感情や記憶と大竹自身の作品とを絡めて語られる部分もあるから、この本を大竹自身による作品解説として読むことも可能ではある。しかし、私は本書を、美術家と言葉の関わりという点に注目して読んだ。本書は2004年から現在まで続く月刊誌での連載をまとめたもの(の文庫版)だが、この連載が大竹に彼自身の制作や作品について言葉で表現することを継続的に強いていたということは想像に難くない。そしてそのことは彼に、言葉にできないなにかを言葉で表現することの難しさに直面させただろう。

 

 「赤い理不尽」と題された文章のなかで、「道理のない動機を言葉で捕らえようとすると、途端に頭の中の言葉が散りはじめる」と語られているように、言葉は「道理のない」ものを捕らえることには向いていない。とはいえ沈黙はなにも生みださない。この文のすこしあとのところで、大竹は彼の頭上に漂っている得体の知れないなにかを描写しようと試みる。

 

 抜けるような青空を思い浮かべる。その中空でゆっくりノラリクラリ形を変え続ける巨大アメーバに似た透明な雲のイメージ、こいつが自分の思い描く理不尽というやつなのかもしれないと思った。(中略)アメーバ雲を通して見上げる青空は微妙に屈折した色彩をグニョグニョと投げかける。(168〜169)

 

 「理不尽アメーバ」と名付けられたそれは、大竹にとってある特権的なイメージとして、制作を進める原動力となっていくだろう。このとき言葉は美術家にとって、名付け、説明するためにではなく、別の角度から見、いまあるのとは別の「道理のない」なにかと出会うために使われている。そのために美術家は言葉を手探りで見つけ出していくのだ。

 

 あるいは、言葉は降ってくる。大竹があるトークイヴェントに参加したときのこと。彼が予期していなかったタイミングで、制作のきっかけについて問われると、「ふと「誤解」という単語が口をついて出た」。

 

 思いと言葉がズレたままその単語がポロッと頭上に落ちて来た。(184)

 

 このズレこそが重要だろう。繰り返すが、言葉は「道理のない」なにかを完全にあらわすことはできない。だから、そこにはズレがある。ふと口をついた「誤解」という単語には「変則的な動きを繰り返すバクテリア的なイメージ」が伴っていたと大竹は続けているが、「バクテリア」や「アメーバ」が持つ予測不可能な運動こそがズレを生み出すのではないだろうか。そして大竹はそのズレを使い、制作を進めていく。いや、微生物の予測不可能性を考えれば、むしろこう言った方が正確ではないか。大竹はズレに使われて、制作を進めていく。大竹の言葉がおもしろいのは、彼が言葉を操るのが上手いからではない。言葉に操られるのが上手いのだ。

 

無数の星の散る夜をしのぶとすれば【評=中村絵美】

赤坂憲雄『〈災間〉に生かされて』(亜紀書房、2023)

 

 書店で一際目を引く本が、本書だった。まず色が良い。とても鮮やかな黄と青が基調だ。そして二色の境目に綺麗なぼかしが入っている。カバーを外してみると中の表紙は淡い黒で、小さな無数の灰色の点が、よく見ると灰色だけじゃなくて赤や青の小さな点が散りばめられている。いや、練り込められているようだから、これは再生紙なのかも。

 

 目次に「夜語りの前に」とか「第一夜」とあったから、本全体のデザインが、夜ともう一つの世界のあわいのようなものを表していたりするのだろう、とひとまず合点し買って帰った。ブックデザイナーは川添英昭というらしい。

 

 そして一気に読み終わって、こう思った。この装丁は、赤坂の文章まるごとを物質的に体現しようとしたものと見て間違いない。本書には、絵で言うところの地塗りとして、東北の人々の言葉と著者の身体的経験がしっかり塗り込められている。画面の上に新しい絵の具が次々と塗られていって、目に見える色彩の調子が地の色とはまったくかけ離れたものになったとしても、それは絵の一番下に必ず存在する。鮮やかなカバーに隠された、無数の星の散る夜空のような表紙がそれに相当している。言うまでもなく、本書で語られる赤坂の言葉には、2011年3月11日に起こった東日本大震災とつづく10年間の彼の経験が塗り込められている。

 

 本書のまえがき「夜語りの前に」で、赤坂による「前口上」が述べられる。東日本大震災の後に、一時期「災後」という言葉が使われていたこと。また、それは戦後との対比を求められる言葉であったが、「災後」は戦後とは異なって、「明るい変化への期待」がいまだ果たされない社会であること。「災後」は「暗い不安」に満たされ、そしていずれ「底なしのさびしさ」に覆われる、と赤坂は言う。

 

 そうした暗い時間の中で、彼は〈災間〉という言葉を知った。この言葉は、仁平典宏の「〈災間〉の思考」(『「辺境」からはじまる』明石書店、2012)という著作によっているという。ここで東日本大震災が、〈災間〉の一つの境目として位置付けられる。すると、今と比較してみるべきもう一方の境目が「戦後」だけではなくなる。

 

 この前口上が済んだあとの語りはしなやかだ。例えば田附勝の写真集『おわり。』を通じて東日本大震災後の三陸の猟師の語りへ、そして宮沢賢治の詩「原体剣舞連」の「打つも果てるもひとつのいのち」という言葉を通じて「東北のいのちの思想」へ迫ろうとする。各章ともに文学、美術、写真といった様々な作品の言葉、そして東北に住まう人々の言葉と経験が、数多く引き合いに出される。

 

 ただし、この方法は学術的な引用の仕方とは異なっている。本書の文章の全てを、赤坂が能舞台で演じる語りだと、前口上によって仮構しているのだ。そうであれば、彼はこの舞台の上で発話を通じて人々の言葉を再生し、語られた人々のいのちをもその瞬間に再演しようとしているのか。そうした再生再演の繰り返しによって、危険に満ちた〈災間〉のあわいを行き来することがようやく可能になるのではないか。