Coyote Reading

明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

獣脂にすっぽり被われて【評=管啓次郎】

ホメロス『イリアス』(松平千秋訳、岩波文庫、1992)

 

 ホメロスの叙事詩『イリアス』を初めて読んで、びっくりすることばかりだった。とにかく血腥い。殺し合いの連続。古代ギリシャでは神々は死なず人間は死ぬのが大原則だが、たちの悪い神々は人間に殺し合いをさせてはよろこんでいるようなところがある。主人公はアキレウス(そう、アキレス腱の名のもとになった人)。ここでは酸鼻をきわめる戦闘場面ではなく、彼の臣下にして親友パトロクロスの葬儀の場面をとりあげようか。すでに物語の大詰めに近い。巨大な焼場を作り、薪を積み上げたいちばん上に遺体を置いて、火葬の準備をする。この描写が強烈だ。以下、引用。

 

多数の肥えた羊と、また角曲がり脚をくねらす牛とを、薪の山の前で皮を剝いで支度を調える。剛毅のアキレウスは、それらすべての獣から脂身を取り出して、遺体の頭から足までをすっぽりと被い、その周りに皮を剝いだ獣の死骸を積み上げる。ついで蜂蜜と油とを容れた把手の二つある甕を、担架にもたれさせてその上に載せる。さらに首を高くもたげる馬四頭を、大声で呻きながら手早く投げ込む。パトロクロスには、食卓の脇に置いて養っていた九頭の飼犬がいたが、その二頭の頭を裂いて薪の中へ投げ入れ、さらには勇猛トロイエ人の十二人の優れた息子たちを青銅の刃で切ってその息の根を止める。まことに無残な企みであったが、これらをみな舐め尽くせと、鉄の如く弛むことなき火を放って火勢を煽り立てる。(下巻 342−343)

 

 捧げ物として(どんな神に対する?)動物が供犠にかけられるが、実用面(?)からいうと獣脂は人間の遺体をよく焼くための燃料にでもなるのだろうか。蜂蜜と油(何油だろう、オリーヴ?)は貴重なものであると同時に何かの意味(たとえば浄化?)を帯びているのだろうがよくわからない。馬は、いわば、戦場の友として牛や羊とはちがった位相にあるのかもしれないが、それと家庭の友(?)である犬も冥土の道連れにされる。そして敵方の捕虜も、はたして何の添え物だというのか、十二人が一挙に殺害され焼かれる。武将の命に比べて、兵士の命はとことん軽い。


 まったく読んでいて胸が悪くなるような話だが、元来の形態、つまりなんらかの語り部が(盲目の語り部が)このような物語を吟じていた時代にあっては、その語りの調子により人々はすっかり幻惑され、これはみごとな葬儀だと感嘆したのだろうか。残虐きわまりない戦闘に付随するものとして、ギリシャ神話では遺体を奪還し、しかるべき作法に則って故地に葬ることの必要が強調されるようだ。荼毘に付す前の移送にあたっては、戦友たちが自分の髪を切り取り、棺の中に投げ入れて、遺骸をすっぽりと蔽うという記述もある。髪もまたそれぞれの生者の小さな供犠か。


 ともあれ、平易で達意の訳文によりこの古典中の古典を日本語で読んで楽しむことができるのはよろこばしい。巻末には伝ヘロドトス作「ホメロス伝」なる一文が付されていて、これもじつに興味深い。ホメロスはもともと盲目の詩人ホメロスだったわけではなく、もとはメレシゲネスと呼ばれていた。塾教師だったが詩人になりたいと思っていた。そこに船旅を勧めてくれる人がいて、各地の風物を見学し、質問により知識を蓄えた。やがて病を得て失明したものの、キュメという町で「年寄りたちが集って歓談する場所に坐り込んでは、自作の詩を聴かせたり、彼等と会話を交わして楽しませたりするうちに、一同はその芸に感服して彼をひいきにするようになった」という。


 そのあとがいい。自分の語りに耳を傾けてくれる人が増えて、メレシゲネスはこう提言したのだ。「もし自分を町の公費で養ってくれる積りがあるなら、彼等の町の名を大いに挙げてやろう」と。地方自治体のお抱え広報詩人! 残念ながらこの提言はキュメの町に否決され、詩人の流浪はつづく。このころ、名が変わった。「ホメロス」とはどうやら「盲人」を意味したらしい。そしてこの名がやがて不滅のものとなったのは、われわれがいまその名を知っていることが端的に証明している。