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明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

この悲惨な世界で暮らす「私たち」とは誰か?【評=林真】

アイウトン・クレナッキ『世界の終わりを先延ばしするためのアイディア——人新世という大惨事の中で』(国安真奈訳、中央公論新社、2022)

 

 私たちはなぜこのような悲惨な世界で暮らすことになっているのだろう? 本書はあけすけにそう問いかけてくる。ある読み手はその問いかけに戸惑い、考えることすらやめてしまうかもしれない。そのとき、世界の終わりはまた一歩近づく。

 

 本書はブラジル先住民族の活動家で思想家のアイウトン・クレナッキ(1953-)の講演・インタビューをもとにした3つの文章と、著者の友人であるブラジルの文化人類学者エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ(1951-)による「あとがき」(解説)、そして「訳者あとがき」から成っている。「訳者あとがき」ではブラジル先住民族が植民者たちからいかに激しく迫害されてきたか、先住民たちが住まう土地の生態系がいかに破壊されてきたか(日本のODAがその破壊に加担したことも訳者は書き洩らさない)、そして先住民活動家たちがこれまでどのように運動を続けてきたかが簡潔にまとめられている。まずこの「訳者あとがき」で知識を得てからクレナッキのテクストを読むのもひとつの手だろう。

 

 クレナッキは「ヨーロッパ文明の中心にある」植民地主義的な「願望」を正当化したのは、「この地球にはひとつの存在の仕方しかない、あるひとつの真実しかない、あるいは、真理というものについてひとつの概念しかないという考え」だったと述べる(8)。この考えが導き出すのが「ひとつの人類」という枠組みだ。その枠組みにそぐわない者たちとして先住民は迫害されてきたし、その枠組みを前提として自然は支配されてきた。ついで著者は「私たちは本当に、ひとつの人類なのでしょうか?」(8)と問いかける。この問いは<人類の中にも様々な集団があるのではないですか?>と換言できるような単純なものではなく(もちろんそのことも含意されているが)、ヴィヴェイロス・デ・カストロが解説で述べるように「『私たち』とは、誰のことなのだろうか?」(61)という問いを不可避的に導き出すものだ。

 

 私たち(この私たちとは一体?)が「ひとつの人類」として「私たち」を認識する限り、世界の終わりを先延ばしにすることは難しい。なぜなら、その「私たち」は「ひとつの人類」の終わりとしての「世界の終わり」を見据えながらも、そこへ突き進むことしかしていないからだ。では、ほかにどんな「私たち」のとらえ方があるのだろうか。クレナッキは「クレナッキ族の村はドセ川の左岸にあり、右岸は山になっています。私は、その山にはタククラッキという名があり、そして人格があると教わりました」(14)と語る。どうやら「ひとつの人類」という考えによって「私たち」から締め出された「自然」をも「私たち」ととらえなおす考え方が鍵になりそうだ。いや、このまとめ方さえも「ひとつの人類」を所与のものとしすぎているのかもしれない。本書の主張は、ある意味でいっそう明快なのかもしれない。「私たち」が山にも人格があると考えるのはむしろ当然なのであって、山と「私たち」とを分ける思考様式それ自体がそもそも歪なものであることに、「私たち」は気づかなければならないのだ。

 

 クレナッキの語りは非常に明快であり、かつ示唆に富む。ほかにも引用したいところはたくさんあったが、それをはじめるときりがない。コンパクトな版にまとめたデザインで、手元に置いておきやすい本だ。何度か繰り返し読むことになるだろう。