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明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

砂金掘りに行くな【評=管啓次郎】

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー『生き方の原則—魂は売らない』(山口晃訳、文遊社、2007)

 

 アメリカ合衆国には講演の文化があり、それがいまも生き続けているんだなと思ったことが何度かある。大学で開催される専門家の一般むけ講演に、かなりの数の聴衆が集まる。学生や教員はもちろん、両者を合わせた数よりも一般の人が多いかもしれないと思うほど。分野はなんでも。宇宙物理学から考古学、エコロジーから数理科学まで。中にはあきれるほど話が上手な先生がいて、大部分はしろうとのみんなを笑わせながら、研究の最先端を紹介してくれる。

 

 アメリカは土地ごとに地元の大学が知的な拠点として機能していて、州立大学なら図書館も住民に公開されているし、大学のブックストアがその地域の唯一のまともな本屋だという場合も多い(もちろんその中にもさびしいほど貧弱なところがあるが)。それだけ文化一般(書物や古典的教養の文化)が追いつめられているのかと思うこともあるけれど、現在の日本がそれを批判できるわけでもない。いまでは主として大学で行われるような講演が、かつてははるかに多様な場で、さまざまな規模で、不揃いな聴衆を相手に開催されていたのだろうということは想像にかたくない。

 

 たとえばエマソンの著作の多くは、まず講演として語られたものだった。ソローもそう。かれらの代表的著述が、まずはかれらの声と表情と身振りをもって、口頭で述べられたものだったというのは、想像するだけでおもしろい。録音機器以前の人々なので、記録はない。講演草稿はあったようで、それが改稿されたものが出版時の原稿になった。どのような内容の話が、どれくらいの長さで語られたのか。ちょっと見ておきたいと考えていたら、非常に適当な本が見つかった。ソローの代表的な講演のひとつ Life Without Principle (1863)が「生き方の原則」として訳されて、訳者によるすばらしい解説が付されている。おまけに英語の原文つきだ。ぜんぶ合わせても120ページあまりの小冊子。土曜の午後に映画を一本見る時間で読み切るにはちょうどいい長さで、読めば「ソローってこういうことを考えていたのか」ということのいくつかが、はっきりとわかる。

 

 その核心にあるのは彼の<商業>ぎらいだった。商業を批判し、お金を稼ぐことに身も心もささげる人々の狂気をたしなめた。講演としての構成のせいか、みんなを笑わせる(大笑いさせ、くすくす笑いさせ、ある者にはきょとんとさせ)表現を次々にくりだすせいか、論旨はうろつきがちで必ずしも明快とはいえないが、芯にある主張はそれだろう。お金を稼ぐためにいまをないがしろにし、自分の人生を見失うことがあたりまえになった現代社会の大多数の人々にとっては、これは過去あるいは月世界からの神託のようにしか聞こえないものかもしれない。だが、ちょっと待ってください。自分がほんとうに考えていることだけを単刀直入に話すという態度を誓っているソローが語りかけてくる言葉は、こんなふうに並べてみるだけで、われわれの心に刺さってくる。

 

この世界は商売にあふれています

何といつもざわめいているのでしょう

このひっきりなしの商売

これほど、詩、哲学、いや、人間が生きることそのものに

反しているものはないと思います

お金が手に入る道は

人を堕落させます

例外はないと言っていいでしょう

町や村が快く報酬を支払おうとする公共的な仕事であっても

引き受けるとなると

きわめて不愉快な面が見えてきます

その報酬は

人間以下のものとなることに対して支払われるのです

何のために働くのですか

生計を立てるためですか

「よい仕事」を見つけるためですか

ちがいます

ある仕事を心から満足のいく形で仕上げるためです

生計を立てる、つまり生きるというとても大切なことが

ほとんどの人にとって、当座しのぎ

人生の真の務めからの逃避となってしまっています

 

 ソローの時代はおりしもゴールドラッシュの時代で、一攫千金を夢見る者たちが噂に翻弄されて、黄金の出る土地に、たとえばカリフォルニアに、ダリアン地峡に、実際に殺到した。だが彼にいわせれば「砂金掘りは真面目な労働者の敵」だ。砂金掘りは博打や富くじとおなじ水準の話。そんなことに大騒ぎするのはやめよう、ということだろう。

 

 ぼく自身は、そうした運まかせのことが現世的な富の序列を撹乱することがあってもいいように思うが、まあ、たしかにまじめな話ではない。ソローとしても素朴な勤労礼賛というよりは、人々にとってお金をつかむことが最大の目的となって、そのためにばかり必死になる風潮が情けないということだろう。彼がほんとうに憂うるのは、こうしたギャンブル的行為ばかりではない。「目的ではなく手段にすぎないはずの貿易、商業、製造業、農業といったものにわき目もふらず没頭することで、私たちの心が本来の状態から歪められ、狭められている」(49)ことが心配でたまらないのだ。

 

 心の狭さ、くだらなさ。それこそソローがもっとも厭うものだった。それを強いる社会から離脱するためには、まず情報の過剰摂取をやめて自分の立つ土地をよく見ること、そして利潤だけを目的とする商業が隠す根本的なむなしさと倒錯を知ることが必要になる。ふたつ、連続して引用してみよう。

 

 一週間、毎日、新聞を一紙読むというのは、読みすぎではないでしょうか。最近、私はそれを試してみましたが、その一週間というもの、自分が生まれた故郷に暮らしているような気がしませんでした。太陽、雲、雪、それに樹木が、これまでのように私に語りかけてくれないのです。二人の主人に仕えることはできません。一日がもたらす富を知り、我がものとするには、一日だけではだめです。もっと長い時間をそれにかけねばなりません。(38)

 

 あらゆる海を、ナッツ類と乾ぶどうを求める船の帆で白く染め、水夫らをそのためのみにあくせく働き者にしてしまう商業! 先日、私は難破した船とたくさんの水死体を目撃しました。布きれ、ビャクシンの実、ビター・アーモンド、などなどの積み荷が浜辺に沿って散乱していました。ビャクシンの実やビター・アーモンドの積み荷のためになにもイタリアのリヴォルノと合衆国のニューヨークの間を危険を冒して行ったり来たりする必要はないように思いました。アメリカが旧世界に苦味【ビター】を求めてわざわざ船を送るとは! この国で、人々に人生の苦杯をなめさせるには、海水や難破船だけでは、まだまだ苦味がたりないというのでしょうか。しかし、私たちの誇る商業とは、こんなものなのです。(52)

 

 メディア状況についても、必要かどうかもわからない物資の輸出入についても、ソローの時代以来ざっと150年あまり、われわれはその方向に活動を増幅させるばかりで、おかげで宇宙の営みについて考え自分の行動をそれに沿って軌道修正していくような思慮と反省の時も、しずかな心の姿勢も、もてずにいる。

 

 あからさまに商業をきらうソローだが、手仕事にしかるべき努力と工夫をつぎこむことには、価値を見出していたようだ。訳者の山口晃さんが本書に付した充実した解説文から、次のような非常におもしろい事実を教わった。家業が鉛筆工場だったソローが、どんな革新を鉛筆製造にもたらしたかについて。

 

 従来のベーベラのロウと接着剤と鯨蠟を混ぜるやり方を改め、滑らかな鉛筆を製造するために、黒鉛とバイエルン産の粘土を混ぜる方法を見出します。細かく一様に潰された黒鉛を生産するため新しい器具をデザインし、作りました。黒煙と粘土を混ぜて焼く方法に改良を加えました。また芯になる鉛を一本一本切る鋸をつくります。さらに切断しなくてよいように、初めから適切なサイズで焼くことを思いつきます。鉛筆の木部を半分に割り、芯を入れてから戻すやり方の代わりに、あらかじめ芯用の穴を木部にあけておく方法を発見します。こうしたソローの努力のおかげで、ソロー家の鉛筆は、市場で最高級とみなされるようになります。(84)

 

 この職人風の専心ぶりには感心するが、彼自身はその後、こうした改良、工夫からは手を引いた。鉛筆製造の事業を拡大し、大いに儲けてやろうといった発想はまるでなかった。アメリカの企業社会(事業は拡大するためにある、儲けは独占するためにある、といった発想を土台とする)が本格的に展開しはじめるのは、山口さんによると南北戦争後のことだそうだ。そして「ソローは市場に対しては、生き方においても、言葉の使用においても、両義的であり、自己抑制が働いています」(85)と山口さんは注釈する。

 

 お金による人心支配がここまで完徹してしまった現代のわれわれのさびしく空虚な世界を捉えなおすには、少なくともソローの時代にまで戻って考えてみる必要があるだろう。すべてが商品であることがあたりまえになってしまった、少なくとも獣の道に反したというほかない現代について、ブラジル先住民の活動家アイウトン・クレナッキは何人かの発言を引きながら、問題の核心をずばり突いている(国安真奈訳『世界の終わりを先延ばしするためのアイディア』中央公論新社、2022)。引用の都合上、少しかたちを変えて列挙する。

 

 「私たちは市民権の代わりに消費を据えて久しい」(ボアヴェントゥーラ・ドゥ・ソウザ・サントス、20)

 「私たちは人々を市民ではなく、消費者に変えてしまったのだ」(ホセ・ムヒカ、20)

 「世界の人々は、すべてが商品であるとあまりにも強く信じ込んでおり、それは私たちが生き、感知できるすべてのことを商品と見なしてしまうほどだ。… つまり、私たちの外には商品しかない」(ダヴィ・コペナワ、38)

 

 いうまでもなくソローのヴィジョンにさえ想像もつかなかったかたちで、現代はこのような事態が世界化している。それによって心身の衰弱を強いられながら、われわれは嬉々として商品世界で生きてゆく、死んでゆく。ワイキキやイパネマのビーチを歩く者は誰もが、そこに寝そべるゾンビ消費者たちの姿を見て号泣するだろう。どんな海からかれらは打ち上げられたのか、と。体細胞の半分がプラスティックに置き換えられて、われわれは死んでも土地そのものに届かない。