Coyote Reading

明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

書くことの不思議さにむかって【評=中野行準】

アニー・ディラード『本を書く』(柳沢由実子訳、田畑書店、2022)

 

棺桶一つのスペースで、人は本が読める。草刈り機やシャベルをしまうスペースがあれば、人は物が書ける。(12)

 

 読者が、書くことに関するなんらかの実践的方法論を求めてこの本を手に取るとすれば、おそらくその期待は裏切られるだろう。この本には、きれいな文章を書くためのコツや(しかし「きれいな文章」とはいったい何か)、物書きになって生計を立てていくための心構えなどは書かれていない。この本はむしろ書くことの大変さと不思議さを教えてくれる。

 

 もっとも思慮深いネイチャーライターの1人であるディラードがまず教えてくれるのは、書くことがいかに大変かということだ。1つの文章を7回も8回も書き直し、1冊の本に10年かける。そのようにいう彼女の「原稿にはいつもの苦しみ、すなわち、血の滲んだ痕跡、歯型の跡、裂け目、焼け焦げの跡があった」(18)。この言葉を誇張として受け取ることも可能だが、私はそうは思わない。彼女は本当に血の滲むような努力をしながら書いているのだ。誰でも発信できる時代といわれて久しいが、これほどのストイシズムをもって書かれている文章はほとんどないだろう。われわれは彼女の態度に多くを学ぶべきだ。

 

 そしてそのようなストイシズムの先に彼女が見いだすのが、書くことの不思議さである。たとえばディラードは「やりかけの仕事」を野生のライオンのようだと言う。あなたが1週間前に「これは傑作だ!」と思った文章は、いま見ると、文意は曖昧で表現も拙い。いったいぜんたい何がどうなってしまったのか。ディラードに言わせれば、それは「あなたが書斎に閉じ込めておいたライオン」なのだ。文章という野生の獣を飼い馴らすために「あなたは毎日それを訪ねて、あなたが主人であることをわからせなくてはならない」(88)。

 

 本書もまた、ディラードが血の滲むような努力で野生の獣を飼い慣らした結果の産物であることは間違いない。徹底的に考え抜かれた文章には、だからこそ一読しただけでは内容を汲み取りがたい箇所もある。そのとき読者は、書くことと表裏一体の読むことにも向き合うことになるだろう。最後に、ディラードの書くことについてのアドバイスをここに引いておこう。あなたはこれをどう読むか。

 

薪割り台をめがけて斧を振り下ろすのだ。薪をめがけてはだめだ。薪を通過し、薪の下の台をめがけるのだ。(100)