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明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

観光から「旅/観光」へ【評=林真】

橋本和也『旅と観光の人類学——「歩くこと」をめぐって』(新曜社、2022)

 

 本書はCOVID-19の流行によって顕わになった「旅」の難しさを「『旅/観光』のハイブリッド」という提案を通じてときほぐす試みといえるだろう。その際、著者はイギリスの人類学者ティム・インゴルドの「徒歩旅行」(wayfaring)という概念を重視し、「徒歩旅行者」の「歩き方」を見極めようとする。「はじめに」で著者は書く。

 

コロナ禍の現在、われわれはフィールドワーカーのように旅に出かけて他者がいかに自らの生を営み、どのような生活世界を築きあげているのかを観察するのは難しい。しかしホームにおいて、またはせめて短い「旅/観光」を繰り返すなかで、感覚を研ぎ澄まし、内側からの観察を通していま生成していることに反応しながら、あらたな「発見」をするという経験を意識的に積み重ねることは可能である。心置きなく「旅」ができる日にそなえて、「徒歩旅行者」としての感覚を研ぎ澄まし、人間/非-人間によって形成される世界への存在論的な認識を鍛え上げ、「旅人/観光者」のハイブリッドなあり方の構築に努めよう。(11)

 

どうして「『徒歩旅行者』としての感覚を研ぎ澄ま」すことが必要になるのか。それは「徒歩旅行」こそが「人間/非-人間によって形成される世界」に(再)参入する、あるいはそうした世界を(再)発見するための方法だからだ。本書の終盤で、著者は「『地のもの』(Earth Being)つまり、山・川・植物・動物も、人工物も、疫病・災害もアクターと捉えるハイブリッドな世界を考えねばならない」(259)と述べる。点としての目的地にとらわれない「徒歩旅行」あるいは「『旅/観光』のハイブリッド」は、定められた点<以外>に広がる存在を視野(あるいは歩幅)に入れるための技法だ。そしてそれは潜在的に、人間中心主義からの脱却の契機でもあるのだ。

 

 ところで、本書で注目される「旅/観光」の実践のひとつに「地域芸術祭」がある。地域芸術祭を歩くことについて、著者は下記のように述べる。

 

次から次へと観光対象の間を輸送される大衆観光者のように作品から次の作品へ「よく知られたものを確認するだけ」ということはなく、「地域芸術祭」の鑑賞者/観光者は作品の展示場を探して地域を歩きまわったという記憶が強く残るのである。あらかじめ渡された地図を頼りに歩いても見つからず、とりあえず遭遇した作品の番号と地図とを照らし合わせて現在地を確認するが、目的地にたどり着けず、または行きすぎて迷うのである。公式ツアーガイドが案内する場合を除いて、「道に迷う」経験をあらかじめ想定していると考えられるのが「地域芸術祭」といえよう。不安な気持ちをもちはじめると、「周りを歩く」ことに意識的になり、その「場所を発見」することが可能になる。それは、出発点から目的地へのたんなる移動ではなく、「徒歩旅行者」の「歩き/発見」する経験となる。(149)

 

準備された作品を鑑賞しにゆくという点で地域芸術祭への訪問は「観光」だ。しかしその訪問には「歩くこと」による「旅」の経験が混じる。すなわち、地域芸術祭とはまさに「旅」と「観光」とがせめぎあう現場なのだ。

 

 著者は地域芸術祭の主催者や地域の住民、参加アーティストなど、そこにかかわる人々の「歩き方」の変化を論じることで、地域芸術祭を記述してゆく。本書でも言及されるインゴルドの「メッシュワーク」という概念を用いて言い換えるなら、さまざまな「ラインズ」が曲がりくねりながら織りなす「メッシュワーク」としての地域芸術祭を描き出す試みがおこなわれているといえるだろうか。さらに本書では、著者自らが地域芸術祭を歩くことでその可能性と課題を「発見」してゆく。すなわち、筆者が1本の「ライン」をつくり出し、地域芸術祭の「メッシュワーク」に加えるのだ。そのため本書を、旅と観光とを接続する遂行的な民族誌と考えることもできるだろう。

 

 ひとたび「旅/観光」の「歩き方」を習得すれば、すべての歩行は「発見」の連続になるかもしれない。そうした「歩き方」においてはきっと、駅前の案内板が目的地の表示ではなく「道に迷う」きっかけとなり、雨天が歩行の妨げではなくその土地を知る糸口となる。本書を手がかりにして、まずはちょっとした外出が「旅/観光」になるところを想像してみたい。