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明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

虚懐を抱き、秋聲をきく【評=中野行準】

藤枝静男『虚懐』(講談社、1983)

 

 虚(虛)という字の下部は丘の形をしている。丘には都があり、神聖な建物や墓地があった。それが荒れ果てたのが廃墟で、虚はもともと廃墟を意味する。そこから、現存しないことの意味になり、虚しいことや嘘を意味するようになる。懐(懷)という字の右側は、死者の衣のあいだに涙が流れる様子を表しており、その意は死者を懐かしみ、懐(おも)うこと。過去をなつかしく懐うという意味にも使われる(白川静『常用字解 第二版』〔平凡社、2012〕)。どちらの字も、今ここにはないが、かつてはあったものに深くかかわる。「虚懐」は「虚なる懐い」、無心という意味だが、そこには喪失と不在に対するおもいが強く感じられる。

 

 この言葉は漱石が生前最後に詠んだ漢詩にみえる。本短編集が藤枝静男の生前最後に出版されたのは偶然だが、この時期、藤枝が自らの死を見据えて執筆していたことは間違いない。漱石の漢詩から、虚懐という語が出てくる前半部分だけ引用する(漢詩の訳や注釈は吉川幸次郎『漱石詩注』〔岩波文庫、2002〕と古井由吉『漱石の漢詩を読む』〔岩波書店、2008〕を参照した)。

 

眞蹤寂寞杳難尋

欲抱虚懐歩古今

碧水碧山何有我

蓋天蓋地是無心

 

 真の道は漠として尋ね難いけれど、虚懐(=無心)を抱いて目指したい。山にも河にも我はない、天地はすべて無心。有名な「則天去私」の心境だ。『虚懐』には雄大な山や河は出てこないが、小動物がたくさん登場する。藤枝はかれらに虚懐=無心を見ていたのだろう。ジョービタキ、鵯、碧鳥、尾長、鶯、目白、蝦蟇、田螺、大烏貝、ヤマカガシ、ヒバカリ、鯉、鮒、亀、ハムスター。これらの小動物が浜松にある藤枝の家の庭を飛び、走り、泳ぎ、這い回る。かれらの振る舞いは可愛らしく、読んでいて楽しい。たとえば庭の池を出入りする亀をえがいた次のような場面。

 

石亀が四つ脚を踏ん張って身体をかなり高く浮かせた恰好で、首を前上方に伸ばしながら急ぎ足で(も可笑しいが実際かなりの速さで)二メートルばかりのところにある雑木の植込みから私の足もとに向かって一直線に這ってくるのであった。(中略)それから更に首を婆芸者のように伸ばして水面の方に身体を乗り出して行った。前脚が宙に浮くと後脚を横に踏ん張ってじりじりと進み、あるところまできて重心が前方にかかるとちょうど板ぺらが反転するように頭から水に墜落して潜って行ったのであった。(58-59)

 

亀が池に入るところが非常にいきいきと、映像的にえがかれる。「婆芸者のように」首を伸ばすというところはよくわからないけれど、それはそれで面白い。

 

 思うように遠出ができなくなっていたこの時期の藤枝にとって、かれらの振る舞いは心慰むものだったろう。しかし、小動物の振る舞いは可愛さに尽きるわけではない。蟻地獄が蟻に凄まじい攻撃を仕掛けるところや、蟇の大群が一所に集まり交尾する「蟇合戦」、大スズメ蜂が蜜蜂の腹を食いちぎるところなど、グロテスクな描写も少なくない。藤枝はそういった振る舞いにも虚懐を見ていたのだと思う。最晩年のインタヴュー(『文學界』1985年5月号)で藤枝は「人間が出てくると、ぶち壊しになる、という気がするのね。(中略)こすく〔原文はこすくに傍点〕ないところがいいんだ。動物はみなちゃんとしている。(中略)人間だけがダメではないかという気持〔ママ〕がいつもあるんだよ。これに対し、信頼すべきものとして自然はある」と述べており、これは『虚懐』の世界を端的に言い表している。と同時に、多分この世界の真理でもある。動物はちゃんとしている。動物はこすくない。

 

 こうした小動物の描写に差し挟まれるようにして藤枝の日常生活が語られるのだが、それらの描写からは、一体この人には何が見えていたのだろうかと思わされる。秋のはじめ、雨が上がったばかりの気持ちの良い夕方に散歩をしていた「私」が突然感じるなんだか得体の知れない恐怖を書いた次のような描写には驚かされた。

 

行く手の路の真中に残されている浅い楕円形の水溜まりにオレンジ色の夕焼けがくっきりと映っているのが眼に入った。それは冷えて沈んだ空気のなかでひときわ美しく見えた。そして私が近寄ってその金色に燿く水面を覗きこんだ瞬間、私は急に怯えて思わず足を引いた。それは、正体が解っていても、思わず顚落して行きそうな奈落の底の別の世界として、立体的な明瞭な輪廓と色で私を脅かしたのであった。私は自分が無限の空虚の深みの端に立っているという馬鹿気た錯覚からのがれることはできなかった。その二センチの深さもない平たい水溜まりを踏んで進む勇気がないということは、実に滑稽以下であった。しかしやはり私は道の端を伝わってそこを通り過ぎ、家に向かって歩いていったのであった。(86)

 

続く部分は更にぎょっとする。

 

人間の一生と云っても、無機的に考えれば巻き返しの効かないゼンマイ時計と同じで、捩子を巻きすぎて途中で切れるか、そのままだらだらとバネが弛んで止まるかの相違があるだけにちがいない。もちろんそういう気がするだけだ。「それまで」と或るものが或る日いうまで凝っとしているのである。(中略)実際を云えば生まれる前はもちろん人間でも自分でもないし、死んだのちは生以前とおなじ永遠の無であるから、この何十年かの生は一個の人間にとっては前後をぶち切られた仮象である。無という概念でさえ人工産物で、永世への慾望の裏返しのような気もする。(87-88)

 

はたして「或るもの」とはいったいなんだろう。この水溜まりの話が公園の雀たちの可愛い描写のあとに語られることもよくわからない。私は『虚懐』を四、五回は読んだが、いまだによくわからない。わからないからこそ何度も読む。今回改めて読み返して、手がかりになるかもしれないと思ったのは、やはり漱石の漢詩である。冒頭で引用しなかった後半の四行を引用する。

 

依稀暮色月離草

錯落秋聲風在林

眼耳雙忘身亦失

空中獨唱白雲吟

 

 

 注目したいのは上の引用の一、二行目。「依稀」というのはぼんやりとし、はっきりしない様子。「錯落」というのは、いりまじる様子。ぼんやりとした夕暮れ時に、草を離れて月が登り、様々なものがいりまじった秋風の音が林を抜けていく。古井由吉は、草原が墓地を連想させる言葉であること、そして秋聲が中国宋の時代の文人、欧陽脩の「秋聲賦」という作品に関係があることを指摘し、それがただの声ではなく恨み悲しみ後悔の声が入り混じった声だという。そこには死者の声も入り混じっているだろう。漱石はおそらく草原に墓場を重ね見、秋風に死者の声を聞き取った。まさしく虚懐である。この漢詩が書かれた二日後、漱石はこの世を去る。凄まじい。

 

 そして、この二行は水溜まりの話と絶妙に重なるように思える。秋の夕方(引用した漢詩と同じ時間帯だ)、水溜まりに奈落の底を見、「或るもの」の声を想像する藤枝は、死を目前にした漱石の姿と重なる。彼らは死を眼前に据え、虚懐を抱き、事物を感じ取る。『虚懐』は藤枝なりの「白雲吟」だった。そこには人も動物も生き物も死に物も、声となって入り混じった風が吹いている。