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明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

猿蟹合戦と鼠スッポン合戦【評=林真】

斧原孝守『猿蟹合戦の源流、桃太郎の真実——東アジアから読み解く五大昔話』(三弥井書店、2022)

 

 昔話は流動する。そのことを教えてくれる好著だ。「はじめに」で著者は次のように書く。

 

 本書は「猿蟹合戦」をはじめ、「桃太郎」・「舌切り雀」・「カチカチ山」・「花咲か爺」という、日本の昔話を代表する五つの話―いわゆる「五大昔話」―の源流を国外に探ろうとしたものである。これら五つの昔話は、いかにも古くから日本に伝わっていた日本独自の話のようにみえるが、文献で確認できるのはせいぜい江戸時代半ばまでにすぎない。その特徴的なストーリーの由来については、ほとんど分かっていないのである。この問題を周辺諸国の昔話との比較によって解明してみたい、というのが本書の目的である。(3)

 

ここだけ読むと、日本の昔話の起源として周辺諸国の類話を紹介する本と思えるかもしれない。だが本書が提示する枠組みはもう少し複雑だ。

 

 著者は日本に伝わる昔話の「源流」を探るにあたって「中国大陸辺境部に住む少数民族の伝承」を重視する。著者によれば日本を含む「東アジア諸国に共通して伝わる昔話の多くは、大きく見ると中国(漢民族)から周辺に広がったと考えて間違いはない」(4)。しかし「中国大陸中心部」に伝わる昔話と日本の昔話のあいだにおいては共通する部分が見えづらいようだ。一方、「じっさい日本の昔話と比較すべき重要な類話は、漢民族よりもそれを取り巻く辺境地帯に住む少数民族のあいだに伝承されていることが多い」とされる(5)。この理由をまとめると次のようになるだろう。主に「中国大陸中心部」から各地に伝わった伝承は、それぞれの地域の地理的・生態的・文化的背景に応じて変化した。しかし日本を含む周辺地域での物語の変化は「中国大陸中心部」での変化と比較して少なかった。とすれば、日本の昔話について考えるためには、同じ<周辺地域>の伝承との比較が有効となるわけだ。

 

 その前提を確認したうえで、本書の「猿蟹合戦」についての議論の一部を紹介しよう。この昔話には、蜂や臼などが出てくる有名な物語の他に、民俗学者の関敬吾が「猿蟹柿合戦」と命名したヴァージョンがある。「猿蟹柿合戦」は九州に多く伝わるもので、柿をだまし取られた蟹は一匹で猿に復讐する。ハサミで尻をはさまれた猿が痛さに耐えかね蟹に尻の毛を与えるというのがこの話のミソだ。

 

 日本には他にも、いわゆる「猿蟹合戦」の類話として柿のかわりに餅が焦点となる話が伝わっている。柿の話が古いか餅の話が古いかという問題は、研究者たちのあいだで長年議論されてきたようだ。著者はこのことについて「木登りの得意な動物と木登りの苦手な動物とが果実をめぐって争い、後者が勝利する」(17)という形式の物語が広範囲で語られていることを指摘する。たとえば中国貴州省のミャオ族には「鼠とスッポンが桃をめぐって争い、鼠に痛めつけられたスッポンに蟹が加勢して鼠とその仲間の虎と狼を退治するという話」(15)が伝わっているそうだ。そうしたことから著者は、先に述べた猿蟹<柿>合戦がより古い形式だったと述べる。

 

 だが、どうして猿と蟹なのか。ここでの「蟹」は「モクズガニ」という種だと著者は論を進める。続いて掲載される水中のモクズガニの写真(22)は衝撃的だ。その蟹のハサミに生えた毛は、まさに猿の毛にそっくりなのだ! 「猿とモクズガニの双方を見慣れた者にとって、モクズガニの毛が元来猿の毛であったという話は、よほど面白かったことだろう」(22-23)と著者は書く。大いに同意するところだ。さらに著者は次のことも指摘する。

 

「動物の果実争い」のうち、猿と蟹の対立を説く物語は、日本列島から朝鮮半島、中国の浙江省、台湾に分布するものであった。これはモクズガニ・チュウゴクモクズガニの分布地とほぼ一致する。(28)

 

重要な指摘だ。すなわち、猿蟹合戦の「源流」はモクズガニという生物の形態と分布を前提としたものだったといえそうだ。

 

 これらの議論から受け止めるべきは「日本の」昔話という枠組みによっては見えてこないものがある、ということではないだろうか。「日本の伝承を見る限り、『猿とモクズガニの闘争』(猿蟹柿合戦)は、九州だけで発達した特殊な伝承に見える」(27)。だが本書が明快に示すように、それは生物と人間のかかわりを通じて生まれた伝承が広く<分布>したものだったのだ。

 

 そうした背景は(私を含む)多くの人々にとって分かりにくいものとなってしまった。それは著者が考察する通り「猿やモクズガニを含む日本の生物相」の変化や「人々の自然に対する観察眼の変化」(30)の結果だろう。さらにいえば、国境をはじめとする境界によってさまざまなものを区切ってしまう私たちの思考習慣にも原因がありそうだ。「『猿蟹合戦』の形成は、東アジア全体の昔話の流動の中から考察しなければならない」(43)と著者は述べる。昔話の「源流」の探求は、この世界を「流動」としてとらえるきっかけを私たちに与えてくれるのかもしれない。

 

 ここからは余談。筆者は中国貴州省のトン族やスイ族、プイ族などの少数民族の人々の村をいくつか訪ねたことがある。2018年と2019年、好機に恵まれてのことだった。それらの旅では鼓楼の下で語り合う人々や村を動き回る犬や鶏たちと出会った。ある村では、夕陽の照らす広大な棚田の一角に魚が泳いでいた。本書を読んで、久々にそうした情景を思い出すことができた。