Coyote Reading

明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

チェーホフとともに書く著者とともに【評=林真】

キリン・ナラヤン『文章に生きる——チェーホフと、エスノグラフィーを書く』(波佐間逸博訳、新曜社、2025)

 

 文章を書くとき、誰かとともに書いているように感じることがある。その「誰か」は会ったことのない人物のときもある。同じ時代を生きていないときもある。たとえばロシアの作家アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフのように。

 

 本書『文章に生きる』は、エスノグラフィーや小説など、これまでたくさんの文章を発表してきた著者キリン・ナラヤンが、チェーホフの作品や人生を参照しながら作文術の手引きをしてくれる書物だ。しかし、ただのハウツー本ではない。事態はもう少し深長かつ愉快だ。というのも、夫の言葉として著者も書くように、これは「How-about(やってみようよ的な)マニュアル」(vii)なのだ。

 

 ナラヤンはインドで生まれ、アメリカやオーストラリアで教える人類学者・作家。エスノグラフィーを書くことを励ます本(つまり本書)を構想していた彼女は、友人に勧められてチェーホフの『サハリン島』に出会い、彼の人生と作品に魅せられるようになる。ナラヤンが「エスノグラフィーの書き手やエスノグラフィー的な味わいを持つ文章を書く作家にチェーホフがインスピレーションを与える可能性」として挙げるのは次の3点。すなわち、「社会的な位置を行き来するエスノグラファーとしての彼の洞察力をはっきりと示している点」、「複数の職業的アイデンティティが、創作的な野心を刺激するということを身をもって示している点」、「社会的観点の変化や執筆ジャンル間の流動的な移動のおかげもあって、表象の問題を鋭く、時としてユーモアを交えてえぐり出している点」だ(30)。こう聞かされるだけで、あなたもすでに『サハリン島』を読みたくなってきたのではないだろうか。

 

 ついで彼女はチェーホフにまつわるさまざまな資料(彼の文章、周囲の人々が彼について残した記録、さらには彼女の夢に出てきた彼の様子まで)から、文章を書くための重要なヒントを掬い出してゆく。やがてそれらのヒントが「ストーリーとセオリー」、「場所」、「人」、「声」、「自分」の5つの章にまとめられ、「書き物としてのエスノグラフィーを作るための技を授けてくれるような本」(vi)として完成したのが本書というわけだ。

 

 本書の大きな魅力のひとつは、著者の語りによって、チェーホフという作家の姿が我々の前に生き生きと現れてくることだろう。ナラヤンは、単にチェーホフのことを紹介しているのではない。そうではなく、彼女がチェーホフから文章について学んだことを、チェーホフの姿を描くことを通じて、遂行的に読者に提示しているのだ。会ったことのない人物に師事することを私淑というが、これはまさに理想の私淑の形ではないかと思わされる。

 

 本書で参照される書き手はチェーホフだけではない。クリフォード・ギアツ、マーガレット・ミード、アナ・チンといった優れたエスノグラフィーの書き手たちの文章も、ふんだんに引用される。それらの引用のあとに、「プロンプト」と著者が呼ぶ作文の例題が提示されるのも本書の大きな特徴だ。たとえば著者はケネス・リードという書き手が、ニューギニアでの調査をもとにしたエスノグラフィーにおいて「自分がその場に居合わせなかった重要な出来事」(115)を描いていることを紹介し、当該部分を引用する。それに続いて提示される「プロンプト」は次のようなものだ。

 

 「私にはふと目に浮かぶのだが……」という書き出しで、直接目にしたわけではないけれども事後的に伝聞で知ったある瞬間における人物のようすを描写してみましょう。(そのイメージの情報源について言及してもよいでしょう。)(116)

 

具体的かつ、実際になにか書いてみたくなるような提案だ。書きたいものがあるのに書けずにいるとき、本書が提示する多数の「プロンプト」のどれかにもとづいてパラグラフをひとつ書いてみれば、そこから展望が一気に開けるかもしれない。そう、本書はまさに「How-about(やってみようよ的な)マニュアル」なのだ。

 

 その他にも、この本には執筆に行き詰った際に役立ちそうな言葉たちがちりばめられている。私が深く頷きながら読んだのは、たとえば次のような助言だ。

 

手持ちの資料を眺め、再開のとっかかりを見つけましょう。ページの編集、インタビューの書き起こし、参考文献リストの作成なんかお勧めです。手を動かしているうちに、作品の構想があなたを捉えたときの初心を思いだし、気づくとあなたはふたたび前に進もうとしているでしょう。(214)

 

とても実用的かつ力づけられるアドバイスではないだろうか。

 

 本書を読んでいると、チェーホフとともに文章を書く著者が「ともに書こう」と手を差し伸べてくれているような気分になる。チェーホフへの私淑の記録であり、優れたエスノグラフィーの案内書であり、文章を書くための実用書でもあるという『文章に生きる』の特徴は、いっけん奇妙なものに思えるかもしれない。しかし文章を書くといういとなみが、これまで文章を書いてきた<誰か>とともに、悩みながらも「前に進もうと」することなのだとすれば、この本はまさに、そうした生のあり方を明快に描き出しているのだ。

 

矛盾を正面から見つめるために【評=林真】

谷誠『矛盾の水害対策——公共事業のゆがみを川と森と人のいとなみからただす』(新泉社、2023)

 

 ひとたび「水害対策」について考えはじめると、さまざまな「矛盾」に気づくことになる。本書『矛盾の水害対策』は、行政所管の機関や大学での勤務を経て現在も水文学(水の循環を扱う学問)の研究を続ける著者が、その矛盾の根本を探ろうとする書物だ。

 

 では、どのような矛盾があるのか。自然という予測不可能なものに手を加えて操作しようという発想自体がそもそも矛盾したものだという考えもありえる。あるいはダム建設。ダムは人々の生活を守るために設置されるはずだが、そのことによって、ダムに沈む場所に暮らしてきた人々の生活は破壊される。これもまた大きな矛盾だ。

 

 こうした考えに対して、治水は実際に減災に効果があるのだから大規模な水害対策を推し進めるべきだという意見もあるだろう。当然、両者は対立する。そして水害対策についての議論は「水掛け論」(これは著者の言葉)におちいることになる。その前提に立ち、「そもそも水害を含む災害をもたらす自然のいとなみとは何かを考え直さないかぎり、この論争のループから脱することはできないように思われる」(18)という立場から、「矛盾」を見つめてゆくのが本書なのだ。

 

 大きな「矛盾」を抱えるもののひとつに、本書が「改良追及」型と呼ぶ公共事業がある。これは、科学・土木技術を用いて社会の利便性や安全性を<発展>させようという志向をもつ事業だといってよいだろう。いっけん良いもののように思えるが、一概にそうとはいえない。自然破壊や地域社会の破壊、将来的な整備の不可能性など、「改良追求」にさまざまな問題があることはすでに明らかだからだ。

 

 それにもかかわらず、改良追求事業は現在も推進されている。その矛盾の根源を、著者は水害裁判の歴史、さらには江戸時代の治水事業のあり方にまでさかのぼって探究してゆく。当然、絶対的な理由をひとつに絞ることはできない。しかし、治水政策のために構築されてきた論理(地域住民との裁判に勝って滞りなく事業を進めるための不断の努力を含む)と、著者が「安全性向上の哲学」と呼ぶものの融合が、大きな原因のひとつとはいえそうだ。

 

 政策に関して本書でなされる重要な指摘のひとつは、「日本の場合、さまざまな政策は、政治家・官僚がみずからの立場を守る「日常的な惰性」の中で決定されて」いるというものだろう(231-232)。たとえば、やや承服し難いような主張に対して「あの人にも立場があるから」と納得したような経験のある方はかなり多いのではないだろうか。こうしたことの連続で、巨大公共事業にかかわる意思決定もまたなされているのだ。政治家や官僚たちの発言も交えて、そうした「日常的な惰性」のグロテスクさを描き出す筆致には、省庁ともさまざまにやりとりをしてきたであろう著者一流の凄みがある。

 

 一方の「安全性向上の哲学」とは、ひたすらに(多数派の人間の)安全性を追求し、安全性を名目とすれば他のどのような議論を差し置いてもよいとする考えのことといえるだろう。この「哲学」は、その内容の素朴さゆえ、「ダム反対派や水害被害者からの追及を抑えるような、河川整備事業への世論の暗黙の支持」(135、傍点は省略した。以下同じ)をつくり出してきた。ダムが上手く機能すれば下流域への流量が減るという論理は定義上正しいため、少しでもダムに疑問を呈すれば安全性を盾に反論されるという構図が固定化してきたのだ。こうしたことに関して、著者は以下のように書く。

 

 「現在よりも良い未来を切り拓く」というビジョンには反論しにくい。けれども、現代は、環境劣化やエネルギー枯渇の問題に直面しており、次世代に向けて社会がより悪くならないように心がけることも哲学にほかならない。(140)

 

 こうして本書の後半部では、「改良追求」ではなく「維持回復」を目指すための議論が展開されてゆく。そこで著者が強調するのが「自然を理解すること」の重要性だ。たとえば森林の土壌層が大雨のときに果たす役割について、私たちはどのくらい知っているのだろうか? それについて知らないままではダム政策についての議論など本来は不可能なはずなのだ。

 

 著者は森林と水の循環についての最新の知見を、なるべくかみ砕いた表現で丁寧に解説する。そこで明らかになるのは、私たちが自然についてなにも知らなかったということ、そして「客観的にみて、改良追求事業を行う安全性向上の哲学は、地球の限界によってすでに否定宣言が下されている」(222)という事実だ。その上で著者は、「維持回復」を優先することの重要性を改めて強調し、「人間は、みずからがもつエゴイズムの力によって人類の絶滅を先に延ばす選択を主体的に行うことが可能である」(252)という考えに希望を見出す。

 

 いま実際に私たちの目の前にあるのは、途方もない矛盾の数々と、自然の複雑さを私たちが理解してこなかったという事実だ。本書はそのことを教えてくれるが、それはなにも私たちを絶望させるためではない。「これまでの長年の研究成果が水害対策に適用できる「機が熟してきた」ように感じられる」(15)という著者の言葉は、間違いなく希望を見据えている。だから本書とともに、恐れることなく矛盾を正面から見つめよう。その先に、「より悪くな【い】」未来があるはずだ。

 

これだけのマジムンがいるんだ、恐るるなかれ、かれらがニンゲンの底知れない残虐に対抗してくれる【評=管啓次郎】

文・朝里樹、絵・ショルダー肩美『おきなわのマジムンず!』(ボーダーインク、2024)

 

 沖縄・奄美にマジムンが多いことに気づいている人は多いと思う。マジムンとは魔物、妖怪のこと。人間を脅しもし、危害を加えることもあるかもしれないが、実害にいたらない場合も多い。そのときマジムンは、少なくとも、この世界がニンゲンだけのものではないということをはっきり教えてくれるだろう。

 

 この本はおもしろい。大笑いしながら読んだ、見た。小学校低学年でも読める総ルビの文に、非常に気味も趣味も悪いイラストがついている。だが読んでいくうちにこのイラストの良さがじわじわと染みこんでくる。それ自体、マジムンとしての絵本の勝利をしめす効果かもしれない。

 

 たとえばキジムナー(木の精)はよく知られているだろう。いたるところに置かれたシーサー(獅子)だって、元はといえば魔除けのマジムン。ジュゴンがザンと呼ばれる人魚だということも聞いたことはあった。だがテケテケ(上半身だけのニンゲンの化物)とか黒金座主(くろがにざーしー、お坊さんの化物)などは、ぼくにとっては初見参。どういう存在かというと、あまりにおもしろいので、ここに記すのは憚られる。いわゆるネタバレを避けるために、ぜひご自分でこの本から学んでください。

 

 ただひとつ、爆笑するしかない「仲西ヘーイ」のことを紹介しておく。再話しておもしろみを損なうよりも、本文をそのまま引用するのがよさそうだ。ルビは省略。

 

 那覇の泊から若狭町にかかる潮渡(しおわたり)橋で夜に「仲西ヘーイ」と呼ぶと、水中に引きずりこまれて神隠しにあってしまう。神隠しにあった人間は大抵の場合、洞窟の中で見つかる。ただし2、3日じゅうに発見しないと飢え死にしてしまうから、とても危険だぞ。(13)

 

 そもそも妖怪の名前は「仲西」なのだが、呼び声としての「へーい」を含めた「仲西ヘーイ」もまた名前として扱われるというのがおもしろい。この直後に紹介される、真夜中に墓場で骨を洗っている女性と、その手伝いをして感謝されるモーイという人物のエピソードがすばらしい。が、それを話すのはここではみずから設定したルールに違反することになりそうだ。ただ結論の段落だけを引用することにするよ。

 

 ある時、モーイは急いで山原(やんばる)へ行かなければならなくなった。そこで女性との約束を思い出し「仲西ヘーイ」と3度呼ぶと、女性は牛のような姿で現れ、彼を乗せて素早く走った。それによりモーイは用事をすませることができたんだ。(同所)

 

 人骨を洗っていたあの女性がなぜ「牛のような姿」になったのか、さっぱりわからない。だがこの省略(民話、昔話の本質)がもつ異様な情感にはそれなりに納得がいく。問題は、こんど那覇に行ったとき、潮渡橋で「仲西ヘーイ」という名を口にすることができるかどうかだ。よほどやけっぱちな気分になっていたとしたら、大声でそう呼んでしまうかもしれない。そのときは、探さないでください。仲西ヘーイへの転身を試みますから。

 

若き隠遁者の示す幸福のありか【評=大洞敦史】

大原扁理『年収90万円でハッピーライフ』(ちくま文庫、2019)

 

 2024年夏、台湾台南市の書店で沖縄の歴史と暮らしを紹介するトークイベントを開いた。終了後、長身のおだやかそうな青年が日本語で話しかけてくれて、今となり町の嘉義に住んでいると言われ、一冊の著書をくれた。どのページのどの言葉も、綿に染みこむ水のように頭に入ってくる。こんなに心踊る読書は久々だった。

 

 それがこの本である。

 

 著者の大原扁理(へんり)氏は1985年、愛知県三河地方生まれ。25歳のとき東京で「隠居暮らし」を始めた。本書はそれから六年ほど過ぎた2016年に太田出版より刊行された単行本の文庫版である。

 

 大原氏は苦労人だ。序盤ではひょうひょうとした文体で、凄惨な過去がつづられている。子供の頃、家には業務用4リットルのウイスキーが常備されており、クリスマスプレゼントはおせんべい。学校では「校舎の屋上に連れて行かれて、その端っこに立たされて、『ここから飛び降りなかったら殺す』って言われたこともありました」。

 

 高校卒業後の三年間、アルバイトで生活費をかせぎながら、私生活でいっさい人と会わず、携帯も解約し、バイト以外の時間をすべて趣味につぎこむ暮らしを送った。読書、映画鑑賞、料理などなど。人生の電車に乗り遅れたが、「いざ乗り遅れてみたらこれがめちゃめちゃ楽しくて……ここは楽園かと思いましたよ」。

 

 三年後、貯金をはたいて世界一周し、帰国後、東京多摩地区の家賃2万8千円のアパートを借りた。月の出費を6万円台におさえ最低限のお金だけをかせぐ隠居暮らしを始める。本書ではその日常とともに、衣食住やお金や労働についての思索のわだちが記されている。

 

 肉はほぼ食べない。あたたかい季節には川辺へ野草を採りにいく。桑、野蒜(のびる)、野萱草(のかんぞう)などの生態や調理法が絵を添えて紹介されている。野萱草はオレンジ色のユリのような花をつける植物で、台湾でもよくつぼみを炒めて食べる。シャキシャキした歯ごたえが心地よい。筆者がルワンダに行ったときもたくさん咲いているのを見た。

 

 大葉くんは、毒や苦味や、トゲを身に付けるどころか、さあ食べなさいと言わんばかりにどんどん美味しくなり、爽やかな香りも放ちまくり、他の生き物に栄養をギブ&ギブするだけなんです。それを思うと目頭が熱くなるわたし。ありがとう大葉くん。えらいよあんた

 

 この一節に表れているような、ときにアニミズム的で、ときに別の星から世の中を眺めているような言葉の数々は、ときに読者を和ませ、笑わせ、おどろかせ、不安を払拭させてくれる。

 

 本書の刊行の翌年、大原氏は17万円と最低限の荷物だけを持って台湾に移住した。その後の暮らしや台湾社会の考察については『いま、台湾で隠居してます』(K&Bパブリッシャーズ、2020年)にまとめられている。

 

 本書には年収90万円で満ち足りた暮らしを送るための工夫が詰まっているが、工夫だけではどうにもならないこともある。筆者が台南に来た2012年ごろ、この町には彼のような生き方を実践している若者がおおぜいいた。エアコンもないアトリエを兼ねたあばら家に住み、手作りのスイーツとか、アクセサリーとか、衣類などを地道に売って、その日その日を過ごしているような。彼らの存在はこの町の特色のひとつをなしていたが、その数は年々減っていった。主な原因は、地価の急激な上昇、それに伴う家賃の高騰だ。廃墟のような建物を、借り手が自腹を切り丹精込めておしゃれな店にして、やっと軌道に乗ってきたところで家賃を不当に釣り上げられ、なくなく手放したという例もあまたある。

 

 一方、地方に目を向ければ、こんな暮らしをしてみたい人が実践するチャンスは、これからもっと広がっていくはずだ。台南で会った翌月、筆者は帰国時に大原氏を誘い、友人の車で、岐阜県恵那の人里はなれた山奥に暮らす高野雅夫氏を訪ねた。筆者が放送大学に在籍していた頃の恩師で、『人は100Wで生きられる』『自然の哲学』などの著書がある。大原氏とも意気投合して話し込んだ。

 

 扁理氏の遍歴は続いていくが、その原点にあるのは、高校卒業から三年間の、携帯も持たず外界との連絡を断ち、ひたすら読書や映画といった好きなことに時間を注いだ日々ではないかと思う。はたから見れば、なかば死んでいるような引きこもりでも、彼の意識は人生でもっとも活発にはたらき、幸福感に打ち震えていたはずだし、本を大量に読んだことが著述活動の基礎にもなったろう。

 

 最後に、筆者がいちばん感銘を受けた言葉を引いて結びとしたい。

 

 自分とのズレを修正するには、とにかくボーッとするのがいちばんです。何もしないこと、何も考えないこと、何も知らなくていいし、何にも応えようとしなくていい時間を、30分でもいいから持つと、すごくいい(180頁)

 

国家の「歴史」に抗って【評=中野行準】

平野久美子『牡丹社事件 マブイの行方——日本と台湾、それぞれの和解』(集広舎、2019)

 

 2024年は台湾にとってふたつの意味で節目の年であった。台湾南部にオランダ人がやってきたのが1624年、ちょうど400年前のことである。そしてオランダ人来台から250年後、1874年には「牡丹社事件」があった。日本では「台湾出兵」とも呼ばれるこの事件は、日本にとっては開国後はじめての海外派兵であった。

 

 事件から150年の節目の年ということで「牡丹社事件」について知りたいと思い、昨年末この本を手に取った。読み進めるうちに思い至ったのは、これが複数の集団と出来事が関わる複雑な事件であり、背後の種々の関係を考慮せずに、2024年をもって単純に150年の節目とすることは数あるうちのひとつの歴史観に過ぎないということ、そしてそうした歴史観は当事者の子孫たちからすれば暴力的な見方にもなりうるということだ。

 

 まず簡単に「牡丹社事件」の経緯を紹介しておこう。1871年、首里から宮古島に帰る貢納船が嵐によって台湾東南部の九柵湾(現在の満州郷八揺湾)に漂着した。66人の乗組員たち(もともと69人だったが、3人は溺死)は、パイワン族の住む集落に辿り着くが、意思の疎通が取れず、54人が殺される。翌年6月、客家人に保護された12人の生存者が帰還する。1874年、西郷従道はこの事件を口実に台湾への出兵を行う。近代的な武器を持った3500名を超える日本兵と、石や弓矢、旧式の火縄銃を武器とする500名にも満たないパイワン族との戦いの結果は最初から明らかであった。この戦いでの日本兵の死者は12名、負傷者は17名、パイワン族側の死者は30名程度とされている(ところでこの出兵での日本兵の病死者は561名にのぼる。これらの死者の多くは腸チフスやマラリアで亡くなったという)。同年10月に清との間で条約が成立し、「牡丹社事件」には幕が引かれた。「牡丹社事件」や「台湾出兵」という名称は、1871年の琉球民漂着殺害事件から1874年の戦闘までの一連の事件の全体をさす。

 

 著者は2005年に行われたパイワン族の子孫と琉球民の子孫の和解イベントを知ったことがきっかけで、この事件についての調査をはじめる。関係者への取材から浮かび上がってくるのは、国家を軸とした歴史記述からこぼれ落ちてしまう言葉や思いだ。被害者のひとりである野原茶武(ちゃむ)さんの子孫、野原耕栄さんの言葉にはそんな思いがはっきりとあらわれている。

 

 漂流した人たちが被害に遭った事件の説明を、明治政府が行った台湾出兵と切り離してもらえないんでしょうか(141)

 

 野原さんの主張は「ヤマトと琉球を区別してほしいということにほかならない」(143)。背景にあるのは、事件当時の琉球の状況である。当時の琉球は、薩摩藩の管轄下にあったと同時に清とも冊封関係にあった。こうした曖昧な状態を解消するために、明治政府は台湾への派兵を「日本人」の敵討ちと説明することで、琉球民を「日本人」という共同体に組み入れ、琉球を日本の領土として確定しようとしたのである。野原さんの先の言葉は、1871年の事件では被害者であった琉球民の祖先が「日本人」に仕立て上げられたことで、1874年の台湾への出兵においては「日本人」の一員として加害者にされてしまうことへの憤りからくるものだ。著者も推測するように彼の怒りや不信感は「とらえようのない大きなものに向かっている」(144)のだろう。それが「ヤマト」なのか、「国家」という制度自体なのかはわからない。現在の沖縄の状況もそうした怒りを募らせる一因であるはずだ。琉球民の被害者たちは、国家的な利害が絡む出兵の要因とされたことで、背負う必要のないものを背負わせられてしまったようにみえる。ふたつの事件をひとまとめにした「牡丹社事件」(1874年)という名称と年号の組み合わせに孕まれている暴力性に、われわれは気づくべきだろう。

 

 パイワン族の側から「牡丹社事件」の記憶継承に取り組んでいる人物がバジロクさんである。彼は母方の先祖に琉球民を救助した客家人をもち、父方の先祖に事件当時のクスクス社(高士仏社、琉球民が最初に迷い込んだ場所であり、戦闘の舞台でもある。現在のクスクス社とは異なる)の頭目を持つ。琉球民殺害事件では加害者、日本兵との戦いでは被害者となったパイワン族側からの視点も、公正な歴史認識の上で欠かすことができない。彼の語りのなかでも特に衝撃的だったのは、逃げ遅れて日本軍に引き取られた少女ヴァヤユン・チャーリエラバールについての話だ。台湾にちなんで「おたい(於台)」と名付けられた少女は、「文明国」日本で「文明人」になるための礼儀作法や読み書き、裁縫などを半年間のあいだ習わせられた。当時、日本ではおたいの物語は美談として語られたというが、実態は全く異なっている。和服を着、日本人の礼儀作法を身につけて、パイワン族の村落に戻ってきたヴァヤユンは、彼女の身につけた「文明」がパイワンの文化を堕落させると非難され、孤立する。ヴァヤユンの最後をバジロクさんの堪能な日本語の語りでそのまま引用してみよう。

 

 ヴァヤユンはねえ、そんな仕打ちに耐えられず、昼間は山に隠れて夜になるとそっと家に帰ってくる。そのうち、だんだん精神がおかしくなっていきます。そして、十六歳のとき、行方不明になってしまいました。村人たちが山や河原を探すと、集落の川下にあった大きなガジュマルの木で首をつって自殺していることわかりました。おお、気の毒だなぁ。可哀想な一生でした(200)

 

 日本軍との戦いの後にパイワン族に起こったことは台湾でも日本でもほとんど知られていない。バジロクさんは「自分たちの歴史が埋もれたままではいけない」(201)と思い、「牡丹社事件」について調べ始めたという。国家を軸とする「歴史」においては瑣末な出来事として忘却される、そうした出来事こそ、バジロクさんにとっては「自分たちの歴史」なのである。沖縄と台湾の関係について研究を続ける又吉盛清さんの「作られてきた歴史や牡丹社事件の、既成のストーリーから自立する努力も必要」(263)という言葉が重要である。国家の「歴史」には、国家にとって都合の悪いことは記されない。しかし、そうした「歴史」のうちにこそ「自分たちの歴史」が埋もれている。だからこそ私たちは国家が強いてくる「歴史」に抗い、当事者たちの声に耳を傾け続けなければならない。死者のマブイ(琉球語で魂の意)の尊厳を守るために。

 

もういちど海とつながるために【解題=林真】

ヘレン・チェルスキー『ブルー・マシン──海というエンジンと人類史』(林真訳、エイアンドエフ、2024)

 

 海との断絶ではなく、つながりを求めよう。海と対立するのではなく、協調しよう。それが本書『ブルー・マシン』の教えだ。そしてその教えは、アウトリガー・カヌーを漕ぐときに大切なことでもある。著者のヘレン・チェルスキーは物理学者。そして伝統的アウトリガー・カヌーを漕ぐオハナ(ハワイ語で「家族」のこと)の一員でもある。「太平洋赤道域向けに設計されたカヌーでテムズ川河口の不透明で冷たい海を駆けまわる酔狂な人々のグループがあるのなら、気が合うだろうと思」い(24)、ロンドンのパシフィック・カヌー・クラブに参加したチェルスキーは、やがてハワイのマウイ島でもカヌーを漕ぐようになったのだ。

 

 本書は、カヌーの漕ぎ手としての体験的な視野と物理学者としての科学的な視野の両方から海を眺めるチェルスキーが、彼女自身の知る「海」を、できるだけそのまま読者に提示しようと試みた意欲的な書物だ。その際、チェルスキーは数式を使わずに物理学的な説明をおこなうという「語り」の方法を選ぶ(このことについては『週刊読書人』2025年1月10日号に掲載の保坂直紀氏による書評も参照のこと)。海にまつわる物理現象は身近な例を通じてわかりやすく説明され、そうした諸現象の探究の歴史もまた、さまざまなエピソードを通じて例示される。たとえば本書を翻訳しているあいだ、極地横断海流の実在を証明したノルウェーの科学者フリチョフ・ナンセンの冒険と慧眼には舌を巻くばかりだった。

 

 著者が常に立ち返るのは、海とは太陽のエネルギーを動きに変換するエンジンすなわちブルー・マシンである、という事実だ。だからこそ海は地球上のありとあらゆる現象に作用している。いうまでもなく、人間の歴史や文化もまた、海によって決定づけられてきた。アクティウムの海戦でマルクス・アントニウスとクレオパトラが敗北したのは、かれらの船が「死水」という物理現象に足どめされたからである可能性が高いという。あるいは、南北アメリカ大陸にはじめて到達した人々は、氷河期を経て表出した長大な海岸線に沿って、コンブの栄養に頼りながら移動していたという仮説(「昆布ハイウェイ仮説」)も興味深い。あるいは19世紀後半から20世紀のはじめにかけてスコットランドにいた「ニシン娘」たちは、カラヌス・フィンマルキクスというプランクトンを追うニシンを追う漁船に並行して、5月から12月にかけて沿岸部を南下し、ニシンの処理・梱包作業を手がけた。当然これは大変な仕事だったが、「魚のはらわたのなかで2本の指を振って既成のイギリスの家父長制にさよならができるというのは、ちょうど使い勝手の良いボーナスだった」(383-384)。

 

 この「ニシン娘」のエピソードに続く部分で著者は次のように書いている。

 

 それにしても海とのつながりはわかりやすい──海というエンジンが物理的に回転し、海の生物がそのエンジンのなかに居場所を見つけるにつれ、人間の生活もまた、そのエンジンが作動するあり方の周囲に構築される。海を巡って航行する人間はまた、貿易・戦争・渡り・探検を通じて陸上にコミュニティを構築した。あまり熱心に探さずとも、その痕跡はほとんどあらゆる場所で目にすることができる。(384)

 

いうまでもなく私たちが食べる魚もほとんどが海からやってきたものだし、都市を形づくるコンクリートの原料となる石灰岩が容易に手に入るのは「海の生物がカルシウムを集めて濃縮するという難しい仕事のすべてを私たちのためにすでにこなしてくれていたからだ」(340)。しかし、普段それらのことが明確に意識される場面は少ない。「効率と低価格の追求によって、熱心に魚を食べる人たちさえも、実際に魚が目の前に丸ごと一匹あるという理屈抜きの現実からは遠ざけられている」(320-321)。

 

 そう、海は私たちの生活と全面的につながっているにもかかわらず、現代の私たちの多くは、海から遠ざかり続けているのだ。そのことで、海はどこか断絶された場所と見なされ、ないがしろにされ、棄損されている。実際の問題として、海岸はコンクリートで固められ、海には大量のゴミが投棄され、海の生物は人類の活動の結果として窮地に陥っている。

 

 本書は最終部分の第3部で、人類がいかに海を危機に陥れているかを淡々と示す。絶望的な状況が最初ではなく最後に語られる、ということに注目してほしい。著者がそれまでの部分で人類による海へのダメージの話題を抑制したのは、誰しもにとって「海を知る」ことが先決だと考えたからなのだ。そして海を知ることは、海との断絶を解消し、海と協調するすべを得ることでもある。ハワイの「ロコイア」の回復は、その希望に満ちた例だ。

 

 ロコイア(フィッシュポンド)とは、石を積んで河口部を壁で囲うことで「河口を事実上拡大」してつくられた養魚池のこと。魚の習性を利用して半ば天然の養魚場をつくるという優美な方策は、ハワイの人々と海との協調を象徴するものだった。19世紀後半以降、ハワイの伝統的な生活様式が侵害されるにしたがってほとんどが放棄されてきたが、この30年間でその価値が見直され、再建が進められている。そして再建に携わるハワイの人々は、ロコイアと同時に自分たちのコミュニティをも再建しているという。このことについて、チェルスキーは以下のように述べる。

 

 ここには明確な教えがある──まずは観察せよ、しかるのち自然から学べ、そしてもしコミュニティが資源を必要とするならば、すでにある自然のメカニズムを拡張することで得よ、そのとき人々と自然のつながりを強めると同時にコミュニティ内での人々のつながりを強めよ、そして常に自然それ自体の内的な諸接続を維持せよ。(168-169)

 

実に端的で力強く、前向きな気分にさせてくれる主張ではないだろうか。そして本書は常に、そのような前向きさを忘れない。この本を真にユニークなものにしているのは、海の悲惨な現状を認識しつつも、そこでうしろを振り返ることだけに終始していない点だろう。そして著者のそうした態度を力づけるもののひとつは、アウトリガー・カヌーやフィッシュポンドをはじめとした、ポリネシアの知恵への尊敬なのだ。

 

 だから気楽に、海についてちょっと詳しくなろうというくらいの気持ちで、本書を開いてみてほしい。実際、この本を読めば明日から海についての雑談の話題には決して困らないだろう。気負う必要はない。そこで提示されるすべては、絶望を深めるためではなく、よりよい世界を希求するための、豊かな知恵なのだから。

 

ルワンダ経済の礎を築いた日本人の手記【評=大洞敦史】

服部正也『ルワンダ中央銀行総裁日記 増補版』(中公新書、2009)

 

 1965年、日本銀行のエリート行員として腕をふるっていた著者は、国際通貨基金の指名を受け、東アフリカのルワンダに渡り、6年間中央銀行総裁として赤字まみれだった経済の立て直しに尽力した。その回顧録である本書は、経済・金融の専門用語が頻出して、すらすらと読み進められる人はまれだろう。だが登場人物たちやそのセリフ、土地の情景、社会状況などの臨場感ある描写や、筋道の立った分析、さまざまな困難と抵抗のなかで工夫をこらして施策を通していく著者の姿などが、難解さをおぎなって余りある魅力を醸し出していて、1972年の初版から今日まで30版を超えるロングセラーとなっている。


 ルワンダは四国より少し広いくらいの小国で、1962年にベルギーから独立した。内陸にあって資源にも産業にもとぼしく、植民地時代から財政は大幅な赤字で、独立後は中央銀行の政府への貸出によりどうにか命脈を保っている状態だった。最大の輸出品はプランテーションで栽培されるコーヒーだが、ケニアのモンバサ港まで1,800キロもの距離があり、その輸送費の負担も大きかった。


 著者が着任後、精力的に財政状況を調べていた頃、カイバンダ大統領から呼び出しを受けた。12ページにわたり記されている一対一の議論のなかで、「私の考えているルワンダ人とは官吏などキガリに住む一部の人ではない。ルワンダの山々に住むルワンダの大衆なのである」といった大統領の言葉に著者は感銘を受け、大統領も著者の理路整然とした分析と提言に深く賛同する。


 こうして大統領の信頼を得た著者は、経済改革全体の指揮を任されることになり、二重為替相場制の廃止、通貨(ルワンダフラン)切下げ、税制改革(特に外国人・富裕層優遇の是正)をはじめとして、自由競争の推進、輸入自由化、農産物増産、倉庫建設、トラックの導入、バス事業の整備、ルワンダ人ビジネスマンの育成など、多方面にわたり社会を動かしていった。


 根底にあったのは、外国人ではなくルワンダ人に資本を築かせようとの願いと、「ルワンダ人殆ど全部がもともと農民であり(中略)工業化による経済発展などという、途上国の多くでとられている性急な政策をとる必要はなく、まず農業中心で農民の繁栄をはかればよいのである」(132)というヴィジョンだった。


 287ページの統計表を見ると、1970年のコーヒー生産量は5年前と比べて44パーセント増加し、輸出入全体の規模も2倍になっており、これらの施策が実を結んでいるのが見て取れる。


 2024年、私は高度を下げていく飛行機の窓から、「千の丘の国」と呼ばれるルワンダの、なだらかな起伏がどこまでも続く赤土の大地を眺めわたした。田畑に囲まれた家々の屋根が、アルファルトに混じったガラスのように輝いている。大きな建物といえばせいぜい学校くらいで、今でも工場らしきものは見当たらない。


 書中に写真が載っている、茅葺き屋根の掘っ立て小屋だった空港の建物は巨大なビルになっていて、当時人口1万人だった首都キガリは今や175万人を要する都市だ。スーパーや青果市場には品物が潤沢に並び、またICT立国を標榜しておりスマホ決済やドローンの活用も進んでいる。近年の目覚ましい経済発展は「アフリカの奇跡」とさえ呼ばれている(その背景には中国政府・企業からの莫大な投資がある)。


 ただし、郊外では土で造られた家に住みながら小規模な農作を営む貧しい人々が多くいることを、地元に暮らす日本の方から教えてもらった。


 ルワンダは、農村社会が工業化を経ることなく、情報技術の進歩の波に乗ることで新たな発展の局面を迎えているという、特殊な経緯をもつ国だ。1994年の痛ましい内紛への反省に立った人権意識や、女性の社会進出度の高さも注目を浴びている。世界がルワンダから学び得るものは多い。本書はそのための最も古く、かつ最も克明に記された文献といえるだろう。