Coyote Reading

明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

1行の不思議【評=中野行準】

大竹昭子、福田尚代『大竹昭子が聞く 福田尚代「美術と回文のひみつ」』(小出由紀子事務所、2018)

 

 東京都庭園美術館で行われた「旅と想像 創造——いつかあなたの旅になる」展で、福田尚代の《翼あるもの》という作品をみた。旧朝香宮邸の書斎の書棚に、観覧者に向けて開かれた本が1冊ずつ置かれてあり、観覧者はそれらを1冊ずつ眺めていくことになる。通常と違うのは、読者は1冊の本のなかのたった1行しか読めないということで、選ばれた1行以外の部分は折られ、文字が部分的に見えるだけだ。折られた頁の束は地層のように見える(ぜひ福田尚代 《翼あるもの》で検索してみてください)。

 

 私はこの作品を見て、ここには読書のある1つの形が端的にあらわれていると思った。本は当然、1回読んだだけではその内容を理解できないし、その回数が増えても完全な理解などはあり得ない(そもそも「完全な理解」とはなんだろう、あるいは「回」とはどういうことだろう)。もちろん本の内容を全て記憶するなど不可能で、だから私たちは付箋を使ったり、あるいは片隅を折ったりして、特定のページをすぐに開けるようにする。そうして印をつけたページを何度も繰り返し開いていれば、いつしか文章の一部分を覚えてしまって、その一部分がその本を代表するようになる。ある段落が、ある1文が、それぞれの読者にとってのその本をあらわすようになれば(読者にとっても本にとっても)それなりに幸福なことで、読んだはずなのに全くなにも覚えていないことがざらにあることを考えれば、本のなかの1文を記憶するというのはれっきとした読書法の1つといっていいだろう。

 

 当然、その1文はそれ自身以上のものをそのうちに含んでいる。ある1文は必ず他の1文と結びついているのだから、選ばれた1文以外の部分も、地層のようにその1文のうちに含みこまれている。《翼あるもの》はこのような読書法を明快に視覚化している。インクの地層に挟まれている1行は、それ自身にとってもっともふさわしい場所におさまって、わたしたちに語りかけてくるようだ。たとえばル・クレジオ『大洪水』(望月芳郎訳、河出書房新社、1969年)からはこんな1行が選ばれていた。

 

紙がこの落書きによって一面にうずまっても、ボールペンの先はなお進んでいく。行間や余白の白い空

 

 面白いのは、選ばれるのが1文ではなく1行だというところ。文章は、意味の切れ目によってではなく、紙の本という形式が課してくる物理的な束縛(1行分の文字数)によって、無情にも文の途中で断ち切られる。そうして切り取られた1行は、なにかの部分であるような感じと、1つの全体であるような感じが両立しているようで、文章の連なりのなかで読むときとはまったく違った1行に感じられた。

 

 それで福田尚代という人に興味を持って、ミュージアムショップで手にとったのがこの小冊子。30ページにも満たない頁数だから、15分もあれば読み終わることはできるが、その内容は汲み尽くしがたい。その汲み尽くしがたさを味わってもらいたいので、さっそく引用してみよう。福田さんの重要なライフワークである回文について述べた箇所だ。

 

 単純な例ですけど、「はし」と書くと、「橋」や「端」と一緒に、「はし」の音を逆さにした「磁場」や「死」「羽」などが景色として浮かんできてます。意味によって次々と景色が変わっていくので、最終的にどれかひとつを選びとって漢字で書きます。でも選んだあとも、ほかの景色も消えずに、音の中に含まれているように思います。(14)

 

 ここで語られているのは、ある種の共感覚と考えていいだろう。福田さんは、ある単語の持つイメージとそれを逆から読んだ単語の持つイメージが同時に並存している世界を生きているのだ。私には全く想像もつかない世界であるが、この小冊子ではそうした世界がわずかなりともイメージしやすいものになっていて、それは稀代の聞き上手である大竹昭子さんによる質問や言い換えに負うところが大きい。大竹さんの言葉によって読者は、想像しがたい世界の輪郭をわずかばかりはつかめる。2人のやりとりを引用してみよう。

 

大竹 回文でもうひとつ謎なのは、言葉が行って戻ってくるターニングポイントがあるでしょう。

福田 ああ、蝶番のところですね。

大竹 その蝶番の場所はどうやって定めるんですか? たとえばマラソンだとあそこまで行けば戻ってこられるという折り返し点が見えますけど。

福田 回文は瞬間瞬間をつなぐ鎖の連続のようなもので、どこでも蝶番になり得るんですね。でもたしかに、いつだれが定めているんでしょう。

大竹 読む側にとっては、たとえば商店街の端まで行き、逆方向からちがう風景を見て戻ってくるというような感じに近いですけど、一方向に歩きながら同時に逆からの風景も想像しているのでしょうか。

福田 両極から見える景色が二重になっていて、こちらからもあちらからも同時に歩いている感じです。平仮名の書いてある紙を透かして、両面から同時に眺めているような。(22)

 

 商店街をこちら側から歩くときの景色とあちら側から歩くときの景色を重ね見ながら歩くという喚起力豊かな説明によって、私は福田さんの見ている世界をわずかながらも想像することができた。福田さんは、おそらく一方向的ではなく双方向的な読み書きをしているのだろう。上から下と同時に下から上という方向で読み、書く。たぶんそのとき、読むあるいは書く起点としての「私」は消滅しているのだろう(「私」という起点があるからこそ順番にしかよめないのだ)。だからこそ「蝶番」の場所が「いつだれが定めている」のかが、福田さんにもわからないのだ。一方向に進んでいく世界に慣れすぎた「私」にとって、双方向的な読み書きを実行するのは難しいけれど、すれ違う人が見ている景色を想像しながら歩くことで、なにか普段とは違った世界が見えてくるかもしれない。