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明治大学大学院<総合芸術系> 管啓次郎研究室の書評ブログ

文字に名残る心【評=管啓次郎】

荒川洋治編『昭和の名短編』(中公文庫、2021)

 

心は消えてゆく。死ねば忘れられる。文字は残る。Scripta manentというラテン語フレーズの真実を思う。心を文字にしようとするのが小説。名作として残っている作品には、作者と読者がある時代に共有した大きな心の名残がある。この短編集がとどめているのは敗戦後半世紀ほどの日本語の心の点景。志賀直哉「灰色の月」の少年工から、色川武大「百」の庭で熊を探す中年の三人まで。佐田稲子「水」の泣きじゃくる幾代と、深沢七郎「おくま嘘歌」で死ぬまで嘘をいうおくまとともに。みんな痺れるほどの存在感を発して。もちろん好き嫌いはあって当然だろう。小林勝「軍用露語教程」と阿部昭「明治四十二年夏」を本書で読めて本当によかった。三島由紀夫「橋づくし」と田中小実昌「ポロポロ」は、ここで再読できてよかった。そして竹西寛子「神馬」冒頭の自然描写の繊細。この本の風景は「すみからすみまで新鮮で、険しい」(編者・荒川洋治)。そして路傍の草のように美しい。